量子コンピューターを理解するための 量子力学入門
第2回 量子力学とは何か?──量子コンピューターが「ミクロ世界を忠実にシミュレーション」する理由
すべての現代科学は量子力学に通ず
周期表が示す元素の性質は量子論で解明された
量子力学は、現代物理学の基礎となっている理論であり、現代物理学において最も重要な理論だと言っても過言ではない。量子力学は20世紀初頭に多数の物理学者たちによって構築されていった理論体系であり、量子力学に基づいていない物理学の理論は一般に「古典物理学(classical physics)」と呼ばれる。高校で習う力学(ニュートン力学)や電磁気学などは古典物理学だ。「時間と空間は伸び縮みしうる」という驚くべき事実を明らかにした有名な相対性理論(特殊相対性理論と一般相対性理論)も、古典物理学に分類される。
物理学とは、文字通り「物の理(ことわり)についての学問」であり、あらゆる科学の基礎となっている学問だ。化学、材料科学、生命科学、医学なども、根本原理まで突き詰めて考えると、物理学に行き着く。量子力学はその物理学の土台なのだから、あらゆる現代科学の一番根っこの部分にあたる理論だといっても言い過ぎではないだろう。
例えば、化学の周期表を思い出して欲しい。高校時代に「水兵リーベ僕の船……」と語呂合わせで暗記したアレだ(水素・H、ヘリウム・He、リチウム・Li、ベリリウム・Be、ホウ素・B、炭素・C、窒素・N、酸素・O、フッ素・F、ネオン・Ne……)。これらの元素の性質は主に「原子を構成している電子の数(最外殻の電子の数)で決まっている」と習ったはずだ7。実は、原子の中で電子がどのような軌道を取り、原子がどのような化学的な性質をもつか(どのような原子と結びつきやすいかなど)は、量子力学によって解明された。つまり現代化学は、量子力学を土台として構築されているのである。量子力学に基づいた化学は「量子化学」と呼ばれ、化学工業や製薬などの産業を支えている。
分子設計は量子シミュレーションの最適解
2018年にノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏らが開発した免疫チェックポイント阻害薬は、免疫細胞の表面に存在するPD-1という分子に結合することで、その効果を発揮する。免疫チェックポイント阻害薬の分子がPD-1に結合すると、免疫細胞の活動の”スイッチ”がオンになり、がん細胞を攻撃するようになるのだ(図2・3)。この事例からもわかるように、生命は複雑な”分子機械”だと言える。つまり生命現象を解き明かすには、様々な生体分子の性質について知る必要があるわけだ。そして生体分子の性質の真の理解には、量子力学が必要になってくる。

量子テレポーテーションの前
量子テレポーテーションの後
現代の新素材開発や薬剤開発の現場では、コンピューターシミュレーションが利用されることがある。さまざまな分子どうしが、どのように力を及ぼし合うかをコンピューター上で計算し、再現することによって、目的の性能をもつ分子を設計してやるのだ。しかし従来のコンピューターシミュレーションでは、量子力学を考慮しない計算、もしくは量子力学的な効果を組み入れるにしても小規模な計算か、粗い近似的な計算しかできない(ただし、そのような近似計算で有用な結果が得られるケースも当然ある)。
例えば、100個の原子からなる分子を考えよう。それぞれの原子はAとB、二つの状態を取れるとする。その場合、一つの分子が取りうる状態の総数は、2×2×2×2×2…と、2を100回掛け合わせた数、つまり2の100乗になる。2の100乗は約1.3×1030乗であり、1兆3000億の1兆倍の100万倍に当たる。このように分子を構成する原子の数が増えれば、分子の取りうる状態の総数は指数関数的に増加する。その結果、分子の振る舞いを計算するために要する時間も指数関数的に増加してしまい、従来のコンピューターでは手に負えなくなってしまうのだ。
しかし量子コンピューターであれば、100個の量子ビットを用意してやれば、この分子が取りうる状態を、量子ビットの重ね合わせ状態を使って一度に表すことができる。つまり自然界の仕組みをそのまま再現しながら計算が行えるので、非常に効率が良いわけだ。
この世界のあらゆる現象は、ミクロな視点から見れば、量子力学の法則に支配されているのだから、そのシミュレーションに量子コンピューターが向いているというのは、ある意味で当然のことだと言えるだろう。その意味では、新素材や新薬の開発以外にも、量子コンピューターはミクロな世界のさまざまなシミュレーションに使える可能性があると言える。量子コンピューターが、革命的なテクノロジーになる可能性を秘めているとされる根拠の一つはこの点にあるのだ。
前回も紹介したように、現在は「量子誤り訂正ができない小規模な量子コンピューター(NISQ)」を使って何ができるかがいろいろと探られている段階だ。そのなかでNISQと従来のコンピューターを組み合わせることで、量子化学計算を行う方法が活発に研究されている。量子誤り訂正が可能な大規模な量子コンピューターの実用化はおそらく20〜30年程度は先になるだろうが、NISQと従来のコンピューターを組み合わせた小規模な量子化学計算であれば、もっと早く産業に役立つ成果が出てくるかもしれない。