その声は、だれがどこに呼びかけるのか
第4回 その声に耳を傾けるのはだれか
「成熟」を理性の進歩として測る道徳理論に対し、ギリガンはケアと関係性から倫理を再定義した。その射程はフェミニズムを超えた〈声〉の政治へと広がる。本節では、この対立の余波をたどるとともに、テクノロジーと声とを再配置されるかを問う次節への足がかりを行う。
目次
「成熟 v.s. ケア」その後
さきに述べたとおり、ギリガンはコールバーグの示した道徳的発達理論への単線化に異を唱えた。繰り返すと、コールバーグのしようとしたことは、カントの道徳法則からロールズの公正的正義を経る個人の「理性の進歩」を心理学化する営みであり、そこでは感情やケア、関係性については前段階的なものとして周縁化された。一方ギリガンは、自己は“正義の倫理(a ethic of justice)”のいう個で屹立するものではなく、他者と依存しあい支えあう相互依存(interdependance)の関係にあり、傷つきやすい(vulnerable)存在であるという観点から「だれもが他者から応答してもらえ、包摂されている」ものとして捉える“ケアの倫理(an ethic of care)”を提唱した。
「ケアの倫理」は、なにも“男性=倫理 女性=ケア”という定式を描くものではない。しかしフェミニズム内部ではときにギリガンの節は誤読され、女性の倫理原則を本質化し、性的役割を押しつけるものとして攻撃されることがあった。著作『抵抗への参加:フェミニストのケアの倫理』(小西真理子・田中壮泰訳・小田切建太郎訳/晃洋書房)では、そうした誤解について反論するとともに、そうした見地こそが「男性に従属する女性」という図式にとらわれたものであると喝破している。
ギリガンの著書『人間の声で:ジェンダー二元論を超えるケアの倫理』(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳/風行社)では、ケアの概念においては、正しさや強さのメッセージではなく、脆弱な声が消されずに関係を再編する実践が重視される。ここでいう倫理とは、ケアの必要が生じる関係状況において応答可能性として立ち上がるものである。ケアの場においては、声はしばしば沈黙やためらいといった形で現れる。ここには、ギリガンのインタビューにおいて多くの少女が意見を表明する際に逡巡した様子が反映しているが、これは女性にかぎったことではなく、男らしさ(masculinity)という名のもとで「男らしくあれ」「強くあれ」と命じる“toxic masculinity(有害な男らしさ)”のもとで萎縮する男性のものでもある。もちろんその声は、ステレオタイプな性的役割のもとで懊悩するセクシャル・マイノリティ当事者のものでもある。声は息と音、単語とリズム、そして言語からなっているのだから。それゆえ、その声は「もうひとつの声で(in a different voice)」ではなく「人間の声で(in a human voice)」という文脈で耳を傾けられなければならない。あまりにも当然だが、ケアを担うのは女性だけでなく、すべてのケアがアンペイド・ワークであるわけでもない。
声の特権化とその解体
本稿ではこれ以降、科学技術と声について論じた哲学者たちをひきつつ、ギリガンのいう“声(voice)”のテクノロジーにおける位置づけを再考する。
あらかじめ見取り図を示しておきたい。まず『存在と時間』において声を“現存在そのもの”から“現存在そのもの”へと投げかける存在了解が生起する契機“良心の呼び声(Ruf des Gewissens)”として、つまり存在論的インターフェースとして定義しつつ、後年の『技術への問い』においては技術の本質を世界から人間への「資源として現れよ」という呼び掛け(Herausfordern)として考察したマルティン・ハイデガーについて考察する。次に、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元訳/中公文庫)をはじめとするエトムント・フッサールの著作を読み解くなかで声を内話として特権化するハイデガーの論について批判したジャック・デリダの論考に触れる。
続いて、デリダのもとに学び、デリダの音声中心主義批判(声=意味の即時的現前という神話)を継承して声の技術的媒介を論じたベルナール・スティグレールについて触れる。スティグレールは声について、もはや内的な純粋な現在ではなく、常に技術的媒介に汚染されており、もはや「主体の内側」に閉じていないと論じる。彼は『技術と時間1:エピメテウスの過失』(石田英敬監修・西兼志訳/法政大学出版局)において、フッサールの提示した、いま聞こえている直近の知覚としての音=1次保持と記憶や想起に基づく主観的体験としての=二次保持に、録音や放送、データ化によって外部化された記憶三次保持という概念を加えて、記録・再生・配信という技術によって、声が移動・反復・編集が可能な外在化された時間の一部になったことを論じる。また『象徴の貧困:ハイパーインダストリアル時代』(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳/新評論)では、資本主義下でのテクノロジーによる自己や個の喪失の危険を指摘している。
スティグレールのもとで学んだユク・ホイは、著書『ポスト・ヨーロッパ』(原島大輔訳/岩波書店)においてギリシャの詩的世界に遡行したハイデガーのヨーロッパ中心主義的な反動性を批判しつつ、やはりヨーロッパニズムにとらわれた師スティグレールの再一的な技術感を批判し、思想の個別化と技術の多様性に基づく全地球的・惑星的な宇宙技芸への技術観へと誘う。同書はまた、アメリカに亡命した後にドイツ語のアクセントを忘れつつあったハンナ・アレントや、ドイツに留学しハイデガーに師事するうちに白米の味に郷愁をおぼえなくなった西谷啓治の経験をひきつつ故郷喪失を語り、舌――いうまでもなく声を発する器官である――について考察した論考でもある。