その声は、だれがどこに呼びかけるのか
第3回 発達はなにをもって成熟となされるか
自立した近代的主体を成熟の完成形に据える発達理論は、正義や理性を尺度として人の発達を序列化してきた。本節では、フロイト、ラカン、ピアジェ、コールバーグらの理論に潜む男性中心的前提を整理し、ギリガンがそれをいかに批判し再編したのかを跡づける。
目次
近代的主体を完成形におく古典的発達理論
本稿第1回でカントの名を出したが、権利や公正さの視点から発達段階を評価する伝統的な道徳発達理論において前提とされる「正義の倫理(ethic of justice)」は、他者から分離(separation)した自立(independance)した個の自律であり、重なり合う諸権利のなかから心理を峻別することである。コールバーグが完成に近い第5段階においた社会契約や第6段階においた普遍的倫理原理とは、啓蒙主義的理性が理想とするところにほかならない。自己と他者とが同等の価値を持つ存在として扱われ、力の違いに関わらず物事が公正に運ばれなければならないというわけだ。
ギリガンはこうした定式が、男性による男性的な論理において構築されており、男性は役割馴致としてこうした“男らしい(masculine)”語りを身につけるよう促されて生育しているために、このスキームでは女性よりも高い段階に位置するのだと指摘する。精神分析学や心理学の中心理論に照合すると、この図式は明白になる。フロイトは、女性の性欲を公然と認めたこと、ヒステリー研究を女性の病理ではなく無意識の葛藤として論じたこと、女性患者とのセッションを理論形成の中核に置いたことから、19世紀末としてはラディカルな性道徳観を持っていたといえる。しかしながら、エディプス・コンプレックスを中心とした精神性的発達論は男性的欲望構造を基準としており、女性の発達については「ペニス羨望」を基軸に考えるゆえにエディプス・コンプレックスの解決が不完全であり超自我が弱いと結論づけており、ギリガンはこれを「道徳の基準そのものが男性的合理性に偏っている」と非難している。フロイトは晩年に「女性は何を欲しているのか。私はついにそれを理解できなかった」と告白しているが、これは自嘲ではなく理論の限界を告白したものだと捉えられることもある。
フロイトの正当な後継者を自称したジャック・ラカンはこれを受け、幼児が全能性としてのファルス(phallus=象徴的なペニス)を断念して象徴的秩序に参入し、欲望が大文字の他者としての法に媒介される発達段階を「去勢」と比喩的に表現している。ラカンはファルスについて、あくまでも比喩的な概念であり生物学的差異ではなく男女ともに去勢を受けるとし「男は ファルスを〈持つ〉/女は ファルス〈である〉」という定式のもとに「女は存在しない」と主張する。これに対しリュース・イリガライは著書『ひとつではない女の性』(棚沢直子・中嶋公子・小野ゆり子訳/勁草書房)において、フロイトの論もラカンの論も象徴秩序そのものを単一の男性的論理で語ろうとする“ファルス中心主義(phallocentrism)”にすぎないとして批判し、性の複数性を主張している。
心理学者ジャン・ピアジェは論理構造の発達について、感覚運動期から前操作期と具体的操作期を経て形式的操作期に至る普遍的過程として記述した。高名さと援用のしやすさかから一知半解に用いられているピアジェの発生的認知発達段階説だが、弁証法的構築説が確立した晩年にピアジェ自身が仮説や実験から基本概念を解説した『ピアジェに学ぶ認知発達の科学』(中垣啓訳/北大路書房)では、どのように成立していったのかを読むことができる。認知発達段階論においては性差は理論化されておらず中立的にみえるが、被験者は男児中心であり、女性は排除こそされないが不可視化されているともいえる。この沈黙の図式は、後に触れるギリガンのコールバーグ理論への批判にも呼応していく。
ギリガンによる恩師への批判と補完
エリクソンは分離(separation)を自律と成熟の条件として、独立(independence)した主体として職業や理念を通じて一貫した自己像(identity)を獲得することが成熟であるとした。前掲の『アイデンティティとライフサイクル』では女性の教育や労働からの排除といった社会的制約を心理発達の自然差として説明されており、女性の成熟は結婚における親密性(intimacy)や母性を通じてなされるとして派生的に扱われている。ギリガンは分離(separation)が自律と成熟の条件であるという図式について「女性にとっての危機は、自立できないことではなく、関係を断たずに声を持つことだ」として、分離を選べば冷酷と、関係を選べば未熟といわれる二重拘束が女性の沈黙を生んでいるのだと論難する。またエリクソンの親密性(intimacy)定義についてもこれを反転し、関係性は未熟さではなく、別様の同一性形式であるとして、自己とは関係のなかで語られ続けるプロセスであると位置づけた。さらに親密性(intimacy)は自我同一性(identity)を確立した後に到達する段階であるとするエリクソンの単線的図式については、女性は初期から関係のなかで自己を経験するのであって、親密性は後続段階ではなく同一性の構成原理そのものであるとして、親密性(intimacy)は補助線ではなく主線であるとして同一性概念を関係のもとに再配置した。
またコールバーグへの批判については心理学史上の大きな展開点だとされている。第1回でも述べたとおり、ギリガンはコールバーグの道徳発達段階論の実験にも参画していたが、まず女性被験者の数が圧倒的に少なかったことを指摘した。ピアジェにおける女性の不可視化と同じロジックである。また道徳発達段階論の実験においてコールバーグは正義についての問いを投げかけて、エイミーをはじめとする女性被験者はケアの問いに応答している。このミスマッチが、女性を劣位におく評価を生じさせたのだとする。また、コールバーグの分類ではそれぞれ前慣習的・慣習的とされた文脈依存性や感情への配慮についても、ギリガンは前者については論理の不足でなく関係への責任、後者については抽象化できないのではなく抽象化しない選択であるとして、高度な道徳的能力として捉えなおした。コールバーグはギリガンの反論について、データのばらつきについては認め、段階3の迎合に道徳的価値を認めたものの、リニアな発達段階については誤りを認めようとはせず、コールバーグが物故したことで直接の議論には終止符が打たれた。
ギリガンは、古典的な発達理論を家父長制のもとで発達した“正義の倫理(a ethic of justice)”として位置づけ、女性の声が顧みられなかったために男性優位の単線的かつ上昇モデルに基づく評価軸が用いられてきたと論じる。ギリガンはこの垂直的な評価軸を横に倒し、関係性を重視して「目の前の苦しみを和らげよ、誰ひとり取り残されてはならない」(『もうひとつの声で』より)という“ケアの倫理(an ethic of care)”を主張した。