サイケデリック/アシッド・サイエンス
第1回 ゲーマーと哲学・社会学徒が到達した生命科学の最先端

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テキスト 都築正明
IT批評編集部

2024年ノーベル化学賞は、Google DeepMind社CEOのデミス・ハサビス博士と上席研究員ジョン・ジャンパー博士、それにワシントン大学のデイヴィッド・ベイカー教授に贈られた。両者はともにタンパク質の立体構造予測を競うハッカソンCASP(Critical Assessment of protein Structure Prediction)で競った仲である。両者はそれぞれ、なぜAIによりタンパク質構造に挑んだのか。

目次

対局“人間と機械の最終決戦”

2024年のノーベル化学賞が、Google DeepMind社CEOのデミス・ハサビス博士と上席研究員ジョン・ジャンパー博士、またワシントン大学のデイヴィッド・ベイカー教授に贈られた。DeepMind社については、読者の方々はすでに多くをご存知のことと思う。「知能を解明し、人類最大の課題を解決する」というミッションのもとDeepMind Technologiesとして2010年にイギリスで設立され、2014年には人AIの倫理委員会を設立することを条件としてGoogleに買収された。少年期よりチェスの神童として名を馳せ、ゲーム開発とコンピュータ・サイエンスから認知神経科学研究へとキャリアを展開したデミス・ハサビスが率いるにふさわしく、同社は囲碁の世界チャンピオンに勝利した“アルファ碁(AlphaGo)”やトップレベルのeスポーツ対戦AI“AlphaStar”で注目の的となった。DeepMind社の共同創設者であり、現在はMicrosoft AIのCEOを務めるムスタファ・スレイマンの著書『THE COMING WAVE AIを封じ込めよ DeepMind創業者の警告』(日本経済新聞出版)には、2016年に“アルファ碁(AlphaGo)”がトップクラスの囲碁棋士李世乭(イ・セドル)に挑み、勝利した大会では、両者のネームプレートにユニオンジャックと太極旗がそれぞれ印刷され、西洋v.s.東洋の図式が強調されたほか、韓国の政府や軍関係者が注目を寄せていたと書かれている。対局後に、李世乭に勝利経験のある柯潔(かけつ)は「AlphaGoは李世乭には勝てるが私には勝てない」と宣言したことから“アルファ碁(AlphaGo)”と柯潔との対局が“人間と機械の最終決戦”として銘打って行われたが、こちらは中国政府による厳戒態勢と徹底した報道規制のもとで行われたという。いずれもナショナリズムを周辺国家や人類の威信に擬えた、よくある図式ではある――いっしょにされた周辺国にとっては、いい迷惑であるという帰結も含めて。

THE COMING WAVE AIを封じ込めよ DeepMind創業者の警告

ムスタファ・スレイマン (著), マイケル・バスカー (著)

上杉隼人 (翻訳)

日経BP 日本経済新聞出版

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タンパク質立体構造というゲームボード

DeepMind社がより複雑なゲームとして選んだのがタンパク質の立体構造予測であり、競技として挑んだのが隔年で行われるCASP(Critical Assessment of protein Structure Prediction:タンパク質構造予測精密評価)というハッカソンだった。深層生成ニューラルネットワークを用いて既知のタンパク質を学習させることでDNA配列からタンパク質の立体構造を予測する初代“AlphaFold”は、2018年に開催された第13回CASPにおいて、既知のテンプレート構造が存在しない新規構造の予測を行うフリー・モデリング・カテゴリに参加した。優勝が目されていたのは、同大会で高い実績を誇るミシガン大学のヤン・チャン教授(現在シンガポールシンガポール国立大学所属)の研究グループが開発した“I-TASSER”で、最高難度の43のタンパク質ターゲットうち3個を的中させた。これに対し“AlphaFold”は25個を予測し、圧倒的な差で優勝した。実績ゼロの非専門家チームが、わずか数時間で大会記録を塗り替えたことになる。2020年開催の第14回CASPでは、DeepMind社は改良版の“AlphaFold2”を携えて、研究者が手動で予測を行うことができるヒューマン・カテゴリに参加した。予測精度は、ターゲットごとの難易度(GDT_TS)と参加者の平均(μ)との差を、参加者の標準偏差(σ)で割って求められるZスコアを合計して測られたが、DeepMind社は合計で244.0と、2位以降に圧倒的な差をつけて優勝した。このとき合計スコア90.8で2位になったBAKERグループを率いていたのが、2024年にGoogle DeepMind社の2名とともにノーベル化学賞を受賞した、ワシントン大学のデイヴィッド・ベイカー教授その人である。

哲学と社会学から“理転”した異色の研究者

デイヴィッド・ベイカー氏は、学部生時代はハーバード大学で哲学と社会学を専攻していたものの、最終学年で生物学の授業を履修したことをきっかけにジェームズ・ワトソンの”The Double Helix”(邦訳『二重螺旋 完全版』青木薫訳/新潮社)を読み、タンパク質折りたたみの謎に魅了されて専攻を転換し、生物学の学位を取得して同大学を卒業した人物である。ハーバード大学卒業後は、カリフォルニア大学バークレー校でランディ・シェクマン教授のもとで酵母におけるタンパク質輸送とトラフィックの研究で博士号(Ph.D.)を取得する。同大学サンフランシスコ校でデイヴィッド・アガード教授とともに構造生物学を研究した後に1993年にワシントン大学の生化学教授に着任する。現在はIPD(Institute for Protein Design:タンパク質デザイン研究所)所長を務めるほか、計算生物学やバイオエンジニアリング、化学工学やコンピュータサイエンス、物理学など複数の学科の教授職を兼任している。豊富なバックグラウンドのなせる業か、産学協同にも積極的で、今までに21社のバイオテクノロジー企業を共同設立して100以上の特許を取得しているほか、一般の市民がタンパク質構造予測に参加できるオンラインゲーム“Foldit”を開発することで、シチズン・サイエンスにも大きく貢献している。2024年ノーベル化学賞がベイカー教授に贈られたのは、自然界にない――つまり偶然性に依拠しない――タンパク質を新たに設計する“de novoタンパク質設計”を讃えてのものだった。“de novo”とは「ゼロベースで」というようなラテン語である。