閉域のウィルス──組織のダブルバインドと知の相転移
1:収束の非対称性 核とAIをめぐる補論

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

核は本当に「収束」なのか

 

核は本当に「収束」なのか

前回、わたしは核を20世紀的な収束、管理の象徴として、AIを21世紀的な拡散の象徴として描いた。わたしは書きながら、こんな反論があることを想起していた。

核こそ、歴史を通じて拡散しつづけてきたそのものではないか?と。

たしかに「核拡散」という語は、20世紀後半の国際政治における最大の脅威として繰り返し語られてきた。
第二次世界大戦後、核保有はじわじわと広がった。アメリカ(1945年)に対抗するかたちでソ連が1949年に核実験に成功し、イギリス(1952年)、フランス(1960年)、中国(1964年)が続いた。核不拡散条約(NPT)が制定された1968年以後もインド(1974年)、パキスタン(1998年)、北朝鮮(2006年)が順次核実験を実施。イスラエルは公式には認めていないものの1960〜70年代頃から保有していると広く見られている──余談だが、1979年公開の長谷川和彦監督作「太陽を盗んだ男」では主人公が「9番」と名乗っていた。当時の核保有国8カ国の次を目指すという意味だ。8カ国の顔ぶれは南アフリカが核兵器をみずから廃棄する一方でパキスタンと北朝鮮が加わり、結果として現在の核保有国は9カ国となった。

考えるべきは核兵器ばかりではない。あるいは制御を失った放射性物質の漏洩こそが、もっとも恐ろしい拡散であろう。1979年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、2011年の福島。これらの事故は封じ込めに失敗したとき、放射性物質がいかに収拾のつかないかたちで空間へ広がるかを世界に刻んだ。核の発散は空間だけに留まらない。放射性物質はその崩壊の過程において時間のなかへとも拡散していく。数十年、数百年、あるいは数万年というスケールで、ゆっくりと時間軸のうえへ溶け込んでいく。それは現在の出来事であると同時に、遠い未来の侵食でもあるわけだ。

と、ここまで論じながらすこし立ち止まって考えてみよう。

「核拡散」とは核が自律的に増殖する欲求から生じているのではない。国家という意志ある主体が「管理された偏在」を広げていく意図的なプロセスだ。核を持つ国が増えても、それぞれの核は厳格な指揮統制の下に凍結されている。NPTとは、まさにこの「管理された偏在」を守るため(核の独占のため?)に設けられた管理の装置にほかならない。チェルノブイリや福島の恐怖もまた収束の失敗であって発散の本質ではない。その恐ろしさの深さは逆説的に核が収束によってのみ成立するテクノロジーであることを証明している。核はどこにあっても管理されなければならない。一方で、AIは管理されないことではじめてその本質を発揮する。

この非対称性こそが前回の論旨の核心である。

管理された偏在(Maldistribution)と自律する遍在(Ubiquity)——第1回で描いた抽象的な「不完全さの生態学」は、いま日本企業が推進するDX(デジタルトランスフォーメーション)と、クリエイティビティを守るはずの著作権という閉域のなかでその輪郭を現しはじめている。

第2回に続く