不完全さの生態学―収束のシステムとしての核、発散の原理としてのAI
1:未完と遊戯による起動
目次
独創性の火種
港湾労働者にして思想家であったエリック・ホッファーは、その思索の断片を綴った『波止場日記―エリック・ホッファー自伝』(中島渉訳、紀伊國屋書店)のなかで、人間の創造性に関する一見すると風変わりな逆説を提示している。
もう一つは、独創と模倣の関係についてのものである。人間が一切がっさい自分で創作したものよりも、他人から借りたものを用いて創作したものの方がはるかにすぐれた人間の独創性がみられるということである。もしもこれが正しいとすれば、模倣の容易さから、完結した表現者よりも、未完の(二流の)作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい。
ホッファーの、この未完への肯定こそが現代のわたしたちが直面しているAIという名の知能を理解するためにひとつの視座を与えてくれる。わたしたちはAIが人間を模倣し代替することを恐れながら、実際の創造の現場で起きていることは逆のようだ。AIが延々と紡ぎ出す、どこか不自然で空疎な「未完のプロット」や「フェイクの質感」こそが、かえって受け手である人間の側の独創性を激しく刺激し、新たなオリジナティを誘発する媒介となっていると思うからだ。
もちろんAIが行うのは統計的に最適なアウトプットにすぎない。これまでのあらゆる独創性や革新性が、統計的な最適解や平均値を逸脱なしに生まれることはなかったと思えば、統計的に最適なアウトプットになんの独創性や革新性があるというのか。むしろ、それはクリエイティビティが問われる領域においては忌み嫌われてきたではないか。
統計的に最適なアウトプットとしてのクリエイティビティ。それはマーケティングに適った商業的な表現作品であったり、流行をキャッチアップすることにだけ長けた二流の作家の作品であったりに感じるものだ。
しかし成熟した感性にとって、貧しく退屈なクリエイティビティがなんの価値もないのかといえば、そうではない。ホッファーが指摘したように、それが次の独創性の素地になることは少なくないからだし、幼い頃にこうしたジャンクなクリエイティブの大ファンであったことを公言しさえするアーティストも少なくない。
メインカルチャーとサブカルチャーの関係はおそらくはずっとそうしたものであっただろう。歴史を遡ってオリエンタリズムやエキゾチズムの拙いほどの素朴さから刺激を得た芸術家も例をあげればキリがないほどだ。
「TEZUKA2023」といえば、生成AIと人間のクリエイターが協働して手塚治虫の代表作『ブラック・ジャック』の新作漫画制作に挑んだプロジェクトだ。総合プロデューサーを務めた人工知能研究者の栗原聡さんに伺った話がある。栗原さんたちはAIにシナリオを書かせた。研究者はそれを見て「使い物にならない」「やはりAIは人間に及ばない」と感じたが、クリエイターは同じものを見て発想を転換させうる可能性を感じ、実際の漫画作品へと仕上げていったそうだ。わたしはここで「完結した表現者よりも、未完の(二流の)作家や芸術家の方が独創性を刺激する」というホッファーの言葉を思い出したのだ。
遊戯と実用の間
AIに限らずテクノロジーは当初から実用という目的のために生まれるのではない。いや、実用だけを求めてもテクノロジーの本質を知ることができないというべきか。人間が介在し、そこに統計には収まらない人間という揺らぎが介在し、テクノロジーの実用が現れてくるのではないか。
ホッファーが先に引用した著作や、別の著作(『エリック・ホッファーの人間とは何か』田中淳訳、河出書房新社)で繰り返し論じたように、人類の発明の多くは切実な必要性からではなく、実利を伴わない「遊び」から生じている。
たとえば、狩猟において獲物を射抜く弓矢ももとは音を楽しむための楽器(一弦琴)であったし、食糧確保のための農耕に先立って植物を育てること自体を楽しむ栽培があった。あるいは、人間と共生する犬も最初は組織的な狩猟の道具としてではなくただ愛でるための対象として同居しはじめた。
これらはすべてまず「遊び」という、実用や目的を発散あるいは無化させるような行為が先にあり、そこに後から実用、実利という目的が接合されたことを示す例だ──ホッファーは実用から遊びが生まれる点も挙げて、実用と遊びが循環的な関係にあると述べていることも付記しておく。
テクノロジーは人の間に浸透するプロセスのなかで、みずからにあらかじめ埋め込まれていた目的を後付けで発現させる生命的なプロセスなのかもしれない。ハイデガーの技術論における「開蔵」という概念にも通じるが、ここでは触れないでおこう。
わたしは冒頭のホッファーの言葉にこんなことも思い出す。
大正時代のアナキスト大杉栄は「美は乱調にあり、階調は偽りなり」と宣言した。完璧に整えられた調和(階調)とは、生命の躍動──大杉が多大な影響を受けたアンリ・ベルグソンいうところのエラン・ヴィタル(élan vital)──を失った沈殿に過ぎない。美とは、その調和を突き破る乱れのなかにこそ宿る。
生成AI時代が到来し、わたしたちは統計的な収束が生み出す“偽りの階調”に安堵を覚えるようになりかけている。しかし、だからこそその統計的な最適解を突き破って、テクノロジーの本質を考えなおす時期にいるのではないか。
それはつまり近代がつくりだした秩序が使いものにならなくなってきているという示唆を与えてくれる。
→第2回につづく