その声は、だれがどこに呼びかけるのか
第5回 思考の個別化と対話に向けて

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

近代技術は人間の手段なのか、それとも世界そのものを編成する力なのか――ハイデガーのいう〈総駆り立て体制〉を起点に、デリダ、スティグレール、ユク・ホイへと連なる思索は、声と技術をめぐる存在論を更新してきた。本節では、惑星的な危機のもとで技術と倫理を再配置する思想の跡をたどるとともに、その先へと向かうために必要なものを考える。

 

目次

総駆り立て体制(ゲシュトル)のもとで

惑星的な危機に応答するために

 

総駆り立て体制(ゲシュトル)のもとで

ハイデガーは後期の講演『技術への問い』(関口浩訳/平凡社ライブラリー) において、近代技術の本質について考察している。彼はまず、技術はなにかの目的を達成するためのツールであるという見地と、技術は人間が発明して人間が使うのだから技術は人間のコントロール下にあるのだという見地の2つを、正しいものの存在論的な本質には届かないとして退ける。ハイデガーにとっての技術とは、人間が道具や知識を用いる行為ではなく、世界をある仕方で開示(aletheia)する力のことである。

世界を開示することについて、ハイデガーは近代的技術の本質を“総駆り立て体制(Ge-stell:ゲシュトル)”であると位置づける。ゲシュトルとは存在者を資源として貯蔵可能なものとして立ち現れさせる強制的な開示の様式であり、そこでは自然物も人間もデータも消費することのできるストックとして、また利用可能なリソースとして資源化される。これを「最大の危機」としたハイデガーが向かうのは、技術を別の様式として捉えなおすことである。その対抗策としてハイデガーは、ギリシャ語に遡行し、技術をテクネー(τέχνη)として捉えなおす詩的世界開示、つまりかつてはテクネーと同義であった、存在の現出という意味を持つポイエーシス(πoίησις)の見地において思索を行うことで、開示の方法を変化させることを挙げる。ハイデガーは『思索の事柄へ』(辻村公一・ハルトムート・ブフナー訳/筑摩書房)所収の「哲学の終末と思索の課題」において「哲学の終わりはテクノロジーによる世界制御の仕組みおよび社会秩序の勝利によって明らかとなり、以後はヨーロッパ的思考にもとづく世界文明が始まる」と予見している。ここで念頭に置かれているのはおそらくノーバート・ウィーナーによって提唱されたサイバネティクスのことであり、事実『形而上学入門』(川原栄峰/平凡社)所収の「シュピーゲル対談(弁明)」においてハイデガーは「哲学はサイバネティクスに取って代わられる」とも言っている。

世界内の自己としての現存在(Dasein:今・ここ性)が開示様式に依存しているとして西洋形而上学が存在を忘却したことを批判したハイデガーに対し、ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』(足立和浩訳/現代思潮新社)において、西洋形而上学が“ロゴス中心主義”に支配されてきたとして、意味は現前するのではなく、常にほかの差異である“痕跡(trace)”によって規定される差延(différance)の運動に依存しているとする。デリダは技術も記号が成り立つ以前に働く差異の運動である書記(écriture)の構造的条件であるとして、常に意味の条件として働くことを示している。ハイデガーは、技術は世界の開示方法そのものとして、デリダは技術(=書記)は人間以前に働く意味の条件として捉えており、ともに人間の外側にあるものではなく、人間の理解や世界経験の構造の内部にあることを提示している。また声についてデリダは、ほぼ同時に出版された『声と現象』(林好雄訳/ちくま学芸文庫)においてフッサールを綿密に読みなおしつつ、声について西洋形而上学が特権化してきた「意味の自己現前(auto-affection)」のモデルとして批判的に捉えつつ、現前の純粋な起源ではなく痕跡によって可能になっているとしつつも、声が過去と未来への差延(différance)に依存していることを明らかにする。これを言い換えてみると、声は個人の内面に直結するものではなく、内部に関係性への期待と文脈依存性を孕みつつ生成されるものだといえる。

 

惑星的な危機に応答するために

デリダのもとで学んだ哲学者ベルナール・スティグレールは前出の『技術と時間1:エピメテウスの過失』において、ジルベール・シモンドンが『個体化の哲学:形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳/法政大学出版局)で提示した“個体化の哲学”を批判的に継承しつつ、技術を毒にも薬にもなりうる“ファルマコン(pharmakon)”として捉えることで、技術を中心に欲望・記憶・注意を再編成する方法について論じた。シモンドンに由来する“個体化(solidification)”とは、前個体的な緊張場から新しい形態が生まれる生成プロセスであり、個体は固定した存在ではなく、つねに未完の過程として理解される。スティグレールはこの生成論を、人間・共同体・技術の三領域に適用し、心理的個体化・集団的個体化・技術的個体化という“三重の個体化”モデルとして再構成した。この固体化論からスティグレールが展開したのが“個別化(individuation)”概念である。彼にとって人間の主体や欲望は、外部化された記憶=第三次記憶(文字・写真・映画・デジタルデータ)との関係の中で形成される。つまり主体は内部的に完結したものではなく、技術的記憶との接続によって「個別化」される存在である。スティグレールのいう個別化とは、外部の記号・技術・メディアが個人の注意・欲望・感性を方向づける動的プロセスであり、同時に集団レベルでも再編成を起こすものである。

ロンドン大学ゴールドスミスでスティグレールの指導のもとで哲学博士号を取得したユク・ホイは、技術を記憶の外在化とみなし、資本主義が個体化を奪うことを憂慮しつつ社会的・精神的な再個体化によってそれを超克しようとするスティグレールの枠組みを、ユク・ホイは宇宙論的なレベルへと拡張する。『中国における技術への問い』(伊勢康平訳/ゲンロン)において、宇宙観(cosmos)と倫理(ethos)を実現する実践としての宇宙技芸(cosmotechnics)という技術観を提示し、普遍技術の不可能性を論じたホイが憂慮するのは、西洋近代への収斂による宇宙観の単一化である。同書では、技術を哲学のスタンスで捉えたハイデガーを評価しつつも、技術の本質を単一な発展軸のもとで捉え、西洋形而上学の延長線上で語ったことについては、西洋の宇宙観のみに依拠しており非西洋の技術を扱う枠組みを欠く断片的なものに過ぎないとしている。同書では人間形成の条件になりうるという技術観や、記憶の外在化と個体化といった論点については評価し継承しつつも、スティグレールもまた普遍主義的な西洋中心主義に依拠していることが批判されている。技術を普遍的合理性の産物とみなす西洋近代的な視点は他文化の技術を矮小化しており、非西洋の宇宙観を包含する技術多様性(technodiversity)のもとにおいて、宇宙技芸が到達しうるというのがホイの中心概念である。

ホイは、続く『再帰性と偶然性』(原島大輔訳/青土社)において、ハイデガーが否定した計算的思考を再考し、偶然をフィードバックループに飲み込み必然性へと変容させるAIの再帰性(recursion)が、ハイデガーの構想を超えた存在論が必要であることを提示する。同書ではその過程において、スティグレールの論じた記憶の外在化の歴史としての技術史を再帰的自己組織化、つまりオートポイエーシスに基づく計算機哲学として更新することの必要性を論じている。そこでは、従来の単線的な存在論や技術史では、宇宙技芸や技術多様性を扱いきれないとされる。

また『ポスト・ヨーロッパ』では、ヨーロッパ的な歴史観に基づくデジタルテクノロジーが世界中に横溢することで、惑星規模で斉一化することを背景に、故郷喪失のノスタルジーのもとで、ナショナリズムと本質主義の危機に晒されているという見立てのもとで“ポスト・ヨーロッパ”としての“技術多様性(technodiversity)”による個別化の重要性を訴える。ホイの中心概念“コスモテクニクス”とは、技術を単なる道具や制度ではなく、宇宙観・自然観・倫理観の表現として捉える思想である。西洋近代は技術を普遍的合理性の産物として理解してきたが、ホイによると、技術には本来、文化ごとの「世界に対する態度」が刻み込まれている。たとえば道家の自然観や東アジアの循環的時間感覚は、まったく異なる技術的世界の可能性を孕んでいる。ホイは、この多様性が破壊されつつあることを危機と捉え、現代社会は“技術的多様性(technodiversity)”を回復しなければならないと主張する。

“ヨーロッパ的”という言葉に首を傾げる読者もいるかもしれない。第2次大戦後のヘゲモニーを握ったのはヨーロッパではないか? と。ホイは同書で、アメリカはヨーロッパを突き詰めた後継者であり、とりわけテクノロジーにおいては“総駆り立て体制”の究極的な具体化であると述べる。これを裏書きするかのように、ピーター・ティールはしばしば自身のスタンスを理性と歴史的進歩への信頼に基づく「ユダヤ=ヨーロッパ的楽観主義(Jewish-European optimism)」として、技術進歩が自然に起き、市場がそれを最適化するという“Everything will work out(きっとうまくいく)”的思想を「根拠なきアメリカ的楽観」として軽侮してみせる。

いうまでもなく、ヨーロッパ的近代を相対化しようという試みは、歴史上幾度もなされてきた。第1次世界大戦後にはポール・ヴァレリーが『精神の危機』(恒川邦夫訳/岩波文庫)において西洋近代産業文明の隘路を、オスヴァルト・シュペングラーが『西洋の没落』(村松正俊訳/五月書房新社)において全体史観にもとづき西洋の“冬の時代”を論じた。またカール・レーヴィットは『歴史の意味』(佐藤明雄訳/未来社)で西洋の近代歴史思想をキリスト教救済史の世俗化として論じ、なにより日本の京都学派は「近代の超克」を論じることで近代を乗り越えようとして、悲劇的な結末へと水路づけた。

デザイン理論化でありカリフォルニア大学サンディエゴ校の視覚芸術学教授であるベンジャミン・ブラットンは2016年に出版した『The Stack』(未訳)において、地球にユーザー・インターフェイス・アドレス・都市・クラウド・地球」という6つのレイヤーが多層的に重なったメガインフラストラクチャーが惑星規模のコンピュテーションとして出現したと記している。またブラットンは、こうした技術の進化を記述するための哲学やデザインの実践を思索するシンクタンク“Antikythera”を設立した。去る2025年10月には日本科学未来館において“Antikythera TOKYO”と題したシンポジウムで「生命、知能、惑星の人工化」をテーマに基調講演を行い、十分に発達した技術が、もはや生命と区別がつかず、地政学的な影響も与えていることを述べた。AI開発に必要なリソースやエネルギー消費、AI開発の国家間競争やオンライン空間での情報・認知戦への活用のほか、本連載第19回「無知を問う無知学(アグノトロジー)とジェンダード・イノベーション」でも提起したゴーストワークにの課題など、人間と技術が相互浸透し、全地球的――惑星的(planetary)――な影響をもたらしつつある現在においてヨーロッパ的な裏付けに偏った技術観だけで対応することは、いかにも無謀に思える。

さまざまな分断や惑星の搾取、故郷喪失のなかでいまだ達せざる故郷回帰の幻影は私たちを蠱惑し、駆動している。スティグレールもホイも、発話と声を論じる哲学者である。惑星的共同性に開かれるなかで、私たちはいかに無知と本質化に陥る誘惑に抗して思考を個別化し、弁証法的でない未来への対話と応答をなし得るか――それが惑星的な危機に応答することにほかならないだろう。

<了>