無知を問うアグノトロジー(無知学)とジェンダード・イノベーション
第2回 アグノトロジー(無知学)の誕生
無知とは、しばしば単なる知識の欠如でなく、社会や権力によって形成・利用される構造のことでもある。科学史家ロバート・N・プロクターとロンダ・シービンガーが提唱した無知学(アグノトロジー)は、その生成と作用を分析する学問領域として注目されている。今回は、プロクターが提示した無知の三類型――①生来の状態としての無知 ②社会的な取捨選択による無知 ③戦略的策謀としての無知――を通じて、知がいかにして生まれ、また抑圧されるのかを探る。
目次
無知の3類型と生来の無知
ともにスタンフォード大学の科学史教授であるロバート・N・プロクターとロンダ・シービンガーは、2008年に共編著による論文集“Agnotology”を出版し「無知学(アグノトロジー)」という新しい研究領域を拓いた。同論文集は未訳ながら2023年9月刊行の「思想」(岩波書店)には、プロクターによる巻頭文「無知学(アグノトロジー)――無知の文化的生産(とその研究)を表す新しい概念――」が掲載されている。
無知学(アグノトロジー)のマニフェストといえるこの文章中で、プロクターはまず無知を3種類に分類する。①生来の状態(または資源)としての無知 ②失われた領域、または取捨選択(受動的構成)としての無知 ③戦略的策謀、または能動的構成としての無知である。
①生来の状態としての無知は、もっとも一般的に用いられる無知のことであり、先に挙げたソクラテスのいう「不知」に近い。プロクターは、生来の状態の無知が生じる原因として、若さゆえのナイーブさ、不適切な教育、単に知識がまだ行き届いていないことを挙げている。社会学者ロバート・K・マートンが「特定された無知(specified ignorance)」と名づけた通り、この生来の状態の無知は探求のきっかけであり、いまだわかっていないことを特定し、そこを探求することが科学の価値と規範を維持する与件となる。それゆえに、プロクターは括弧書きでこの無知を“資源”と称している。また近世の啓蒙主義においては、この無知を名指したうえで克服することが理性を獲得する方途とされた。後述するようが、啓蒙主義におけるそれは限られた白人男性による“上から目線”のものであったという留保がつく。
失われた領域、または取捨選択(受動的構成)としての無知
②失われた領域、または取捨選択(受動的構成)としての無知は、マートン的科学社会学への批判として社会学者マイケル・スミスソンが提唱した「無知 (Ignorance) の社会理論化」とも接続する考えかたである。スミスソンは、知識の社会学において「知識がない」「知られていない」「意図的に無視された」状態として捉えられていた無知を社会的構成物として分析している。未知は世界に溢れており、探求できる事項――①における「特定された無知」――は限られている。無知を特定するにあたっては優先順位をつけることが必要であり、そこにはさまざまな社会的要因や価値判断が介在する。この判断や意思決定が、個人やグループのレベルだけではなく、社会や制度といった大きなレベルでの制約を受けると考えると、知識が社会的構築物であると同時に、判断によって除外された無知もまた社会的構築物であるということがいえる。
ロンダ・シービンガーが『植物と帝国: 抹殺された中絶薬とジェンダー』(小川眞里子・弓削尚子訳/工作舎)に示されている例は以下の通りである。18世紀のカリブ海地域ではヨーロッパ人による植民地での植物探査が盛んに行われ、現地の民間療法や薬効のある植物が盛んに西欧に紹介された。そのなかで、オオコチョウ(和名:黄胡蝶)という植物は、観賞用として大陸に輸入されたものの、現地で採用されていた中絶薬としての薬効についてはヨーロッパの医療・薬学体系には記載されなかった。その背後には、多産を奨励する帝国の社会的価値観があった。同書では、知識が選択的に利用され、また抹殺されるのかをジェンダー・人種・帝国主義と関連づけて検証している。
このように、過去に存在した知識のなかには意図的に隠蔽または抹消されたものがあり、それらを検証して再発見すること、そして権力が無知を生産する構造や意図的な忘却・沈黙・排除、また無知の制度化について考察することが「無知学(アグノトロジー)」の大きな役割である。
戦略的策謀、または積極的構成としての無知
プロクターが学生時代より研究を継続し、無知学(アグノトロジー)において強調するのが③に掲げた戦略的策謀、または能動的構成としての無知である。②で示した無知が社会的に(受動的に)構築されるものだとしたら、そうした無知を意図的に(能動的に)つくり出すことも可能だろうというわけだ。プロクターが代表的なものとして挙げるのは、タバコの発がん性や軍事機密だ。タバコはオオコチョウに先立つ16世紀に、同じくアメリカ大陸で“発見”されて1571年に万能薬として紹介された後にヨーロッパ全土に受容される。17世紀以降は重商主義のもとで国家に莫大な収益をもたらす商品として多くの課税がなされたり、専売制度のもとで輸入から販売までを国家の管理下に置かれたりした。19世紀末に紙巻きタバコの大量生産が可能になると、喫煙習慣は庶民にまで行き渡ることとなる。
タバコ産業の危機は、20世紀半ばに発がん性が指摘されたことにはじまる。販売の萎縮を危惧したアメリカのタバコメーカーは、疑惑の矛先を逸らすために業界団体CTR(Council for Tobacco Research:タバコ研究評議会)を設立し、タバコと健康を考えるという名目で全米の大学に研究助成金を提供した。しかし助成の対象となった研究は、ニコチンとは関係のない医学や生化学であり、ニコチンとは異なる健康被害を喧伝することでタバコの発がん性を否定したり、人々の注目を遅らせたりするよう誘導していたことが明らかになる。学部生だった1980年代からがんの社会的・政治的原因に興味を抱き、がんの原因の1/3がタバコによるものだと知ったプロクターはこれらタバコ産業についての調査を進め、1995年に原著発行の『がんをつくる社会』(平澤正夫訳/共同通信社)でタバコ産業界と政界やアカデミアの欺瞞を告発した。同評議会は、プロクターも証言した訴訟や内部告発により州政府との和解合意ののち1998年に閉鎖された。
プロクターは②③に挙げた無知についての研究を学術分野とするために新しい学術用語のネーミングを言語学者イアン・ボウルに依頼し、ギリシア語に基づく“agnotology(無知学)”の名称のもとにプロジェクトを開始した。彼は「ロゴス、コスモス、イゴス――科学における名詞化接尾辞の政治的記号性(あるいは、科学分野を造語するための音感覚素的な色合いと染み)」という論文で「〜イクス」「〜オロジー」という学問領野に高い地位が与えられ「〜研究」という領野は低く扱われるという序列を指摘しているが「アグノトロジー」という名称は、この学問分野の裾野を広げたいという意図があったようにもみえる。
ロンダ シービンガー (著)
小川 眞里子, 弓削 尚子 (翻訳)
工作舎
ロバート・N・プロクター (著)
平澤 正夫 (翻訳)
株式会社共同通信社

