文化的接木と連想の果て
第4回 ChatGPTは「les essais」をどう読んだか?
60回を振り返ると言いながら、だいぶ横道に逸れた。ここで、ある程度のまとまりごとに振り返りをしておきたい。と言いながら、モデル5をリリースしたばかりのChatGPTに、これまでの原稿を読ませてまとめた文章を引用文として掲載する。適宜、修正と加筆を行なっているが、大幅に手は入れない。
目次
5年間の螺旋的深化
2020年11月に始まった本連載は、テクノロジーと人文思想の交差点を縦断し、59回の記事を一貫して「技術実装→科学思想→人文学/宗教→制度設計」の螺旋的深化を描いてきた。
Ⅰ.初期段階(–)制度化と社会実装の技術感想
連載開始当初は「DX/電子化」「信用と認証」「デジタルID」「AI規制」など、技術が社会認証をどのように扱うかが中心テーマだった。
-
:
#01「想像力がテクノロジーを奪う」
では、技術の自律的進化に人間の想像力がどこまで追いつけるかを考えた。
-
:
#08「AIは人の何を管理するのか?EUのAI規制から考える」
では、EUの法制度を梃子に「制御すべきAIの範囲と人間性の定義」を探求した。
この時期の記事は平均4,000字前後、(noteにおける)スキ数も低調ながら、基礎理論と政策実現に光を当てた。
Ⅱ.中期フェーズ(–)科学思想と文化批評の交差点
制度から一歩離れ、量子コンピュータ、宗教/神話、XAI、スポーツや映画を媒介とした哲学論まで考察が拡大。
-
:
#20「量子コンピュータを巡るプラトン主義 アインシュタインとボーア、ペンローズとホーキング」
では、古典哲学と最先端科学の対話を試み、知識の普遍性を問い直す。
-
:
#27「ワールドカップが求めた数学的な正しさと、ポストヒューマニズムの行方」
では、スポーツを実践する舞台として「数理モデルと身体・主体性の再編」を議論。
-
〜:
生成AIが連続テーマ
#30「ChatGPTから身体と『心』を考える」
#34「言語ゲームとしてのChatGPT 似非インテリに欠けたる粋」
#35「沈黙を知らないChatGPT 紋切り型と記号接地問題」
と続き、ChatGPTと言語哲学について述べている。流れは文字数7,000字へ前後長文化し、反応(スキ数)も20〜30前後に増加した。
Ⅲ.展開フェーズ(–)大きな物語から神秘哲学へ
生成AIを超えて「物語の総体化」へと移行。
-
:
#38「新しい『大きな物語』のために ヒューマニズムを更新する試み」
では、人文学的ビッグヒストリー構築を提案。
-
:
#41「何故なしに生きるということ『PERFECT DAYS』と神秘主義」
では、映画体験を手がかりに「日常の神秘化」を論じ、テクノレビューから東西宗教思想へと前進する。
-
:
#46「テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ」
では、米国のリバタリアン批判から神秘哲学にまで話を広げる。この時期の記事は文字数10,000〜13,000字に達し、理論的な仮説と物語性を含む長大エッセイが中心となった。
Ⅳ.収束フェーズ()制度設計とネットワーク倫理の探求
最新の2025年1月以降は「AIの民主化」「共同主観的ネットワーク」「シンギュラリティの先へ」「PLURALITYと滑らかな社会」へとテーマが移る。
-
:
#53「AIの民主化と、AIによる民主化 イノベーションの望ましい帰結」
では、市民参加型AI運用を示唆する。
-
:
#57「共同主観的ネットワークの仮想構と生成AIのハルシネーション──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域」
では、ハラリ『NEXUS』を題材に「知識の正当性」と「共同ネットワーク性」の限界を批判的に問い直す。
-
:
#59「複雑な世界を複雑なまま生きる──PLURALITYとなめらかな社会」
では、PLURALITY論と「滑らかな社会」を制度デザインの視点で総合。技術と社会の関係を現代的な視点で読み解こうとしている。
V.蓄積的深化の構造
1. 技術の社会実現期 → 2. 科学思想と文化批評の重層期 → 3. 物語再編と東西思想統合期 → 4. 制度設計・ネットワーク倫理期という螺旋構造は、各フェーズで「人間とは何か」「自由とは何か」「正しさとは何か」を技術の現場から一歩前に再投影することを繰り返してきた。
VI.継続的深化の方向
本連載は技術と人文学の対話を継続的に深化させ、最終的に制度設計とネットワーク倫理の地平まで到達した。
事例検証と実装モデル:PLURALITYや共同主観的ネットワークの概念を具体的な社会プロジェクトで検証。
多層のガバナンス設計:AI民主化、量子技術規制、情報公開認証などを統合した多層ガバナンスモデルの構築。
物語と制度の双方向性研究:大きな物語が社会制度再編に成果をあげる役割と、制度変革が物語構築に向けて再考する。
ChatGPTの要約に対する違和感
と、まあ、こんなふうにまとめてくれた。よくまとめているようで筆者としてはやや違和感を抱くところもある。たとえば、わたしは大きな物語への危機感を繰り返し述べてきたつもりだ。ハラリやカーツワイルのユダヤ=キリスト教的な世界観に染まったテクノロジー論に対する違和感や、アンチ欧米としての東洋思想が内包する「形而上学的ファシズム」(ユク・ホイ)についても指摘してきた。もちろん、どれも自分の思想や哲学というには生煮えの感想文の域を脱し得ないものなのは承知のうえだが、それでも現在の日本で持て囃されたり忌避されたりする類のテクノロジー論について、ある側面から深く考えてきたという自負を持っている。