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第3回 匿名の力とその暴走:ル・ボンがみた群集のメカニズム

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テキスト 都築正明
IT批評編集部

匿名の群衆が炎上すると、理性は後景に退き、破壊衝動が人々を支配する――19世紀末の社会動乱を背景にル・ボンが説いた群集心理論は、SNS時代の“炎上”現象やポピュリズムの構図にも通じる普遍性を帯びるようにもみえる。

目次

ギュスターヴ・ル・ボンの群集心理論

匿名の多数による、いわゆる“炎上”について、しばしば1895年にギュスターヴ・ル・ボンの著作『群衆心理』(桜井成夫訳/講談社学術文庫)が参照される。この論考が著された19世紀末のフランスは、1870年の普仏戦争でナポレオン3世が敗北して帝政が崩壊し、第三共和政が成立した翌1871年、労働者の自治政府であるパリ・コミューンが暴力的に鎮圧された時期だった。ル・ボンの群衆観は、このコミューンの群衆の暴動の印象から芽生えたと考えられている。社会背景としては、産業革命の進行による都市人口の増大、大都市のスラム住民や労働者階級の貧困問題、ストライキや労働運動の活発化があった。とくに国家権力を否定して自由の最大化を重視するアナルコ・サンディカリスムをはじめとするアナキストの直接行動は、とくに文化的な“ベル・エポック”の栄華に酔いしれていたブルジョワジーたちを不安に陥れた。当時を描いた映画にエリ・ワジュマン監督「アナーキスト 愛と革命の時代」などがある。

ル・ボンはこの群衆を評して、群衆のなかで個人は匿名化されることで抑制が薄れて個人の責任感が低下し、普段は抑えている衝動を解放して非合理的・破壊的な行動を起こしやすいとした。ここでは群衆の心理は個人の心理とは異なるものとして捉えられており、群衆は単純なナラティブやイメージに動かされるとされる。ル・ボンは、こうした理路のもとで、革命や戦争などの歴史上の変化は、理性による選択ではなく、群衆心理の力学で説明できると結論づける。さらに、社会の安定のためにはカリスマ性を持つ指導者と、群衆を操るプロパガンダや心理戦略などが必要だと説いている。

ナショナリズムや神話的演説、感情論や恐怖を煽るプロパガンダのうえでカリスマ的指導者を欲望するさまは、たしかに、国や時代を超えた説得力を持つようにも思われる。いまでも同じようなことをしたり顔で言うコメンテーターの姿が目に浮かぶようだ。

群衆心理

ギュスターヴ・ル・ボン (著)

桜井成夫 (翻訳)

講談社

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ファシズムを招来した人心掌握のテクネー

ル・ボンその人はファシズムの出現以前の1931年に物故している。またかれの主張はブルジョワ的秩序を保持するスタンスにあり、民主主義や社会主義による“平等主義”による群衆の増長が秩序を破壊することを危惧する、きわめて保守的なものだった。一方で、理性ではなく感情的な強いスローガン、単純でドラマチックなメッセージと象徴性、そして強力な指導者像により群衆に幻想を抱かせるというル・ボンの群衆操作のテクネーは、のちのファシズムに大きな影響を与えている。

1921年に国家ファシスト党統領、1943年に共和ファシスト党統領としてイタリアをファシズム政治に陥れたベニート・ムッソリーニは、1901年にイタリアの師範学校を首席卒業後に一旦はイタリア国内で教職に就くが、スイスに移住し放浪生活を送りつつ、政治機関誌に寄稿するジャーナリストとしての生活を送る。この生活のもとでドイツ語とフランス語を習得し、ジョルジュ・ソレルやシャルル・ペギー、フリードリヒ・ニーチェとともにル・ボンの思想に傾倒したという。またウラジーミル・レーニンの秘書アンジェリカ・バラバーノフからマルクス主義の教示を受けたことを契機に、レーニン自身もムッソリーニの演説を聞き、高く評価したという。

また、アドルフ・ヒトラーがル・ボンを読んでいたという明示的な記録はないものの、ミュンヘン一揆といわれるクーデター未遂により禁錮中に口述筆記させた『我が闘争』(平野一郎・将積茂共訳/角川文庫)書中には「群衆は知的に貧弱で、感情的で暗示に弱い」という一節があり、これはル・ボンの理論に酷似している。またナチスのプロパガンダ理論の中心人物ゲッベルスについても、日記や演説、回想録にル・ボンの名を明示的に挙げた箇所は見当たらない。またナチ党の理論家アルフレート・ローゼンベルクや周辺の言説においても同じようにル・ボンの名はみられないものの、ナチ党の知識人のなかでドイツ語訳された『群集心理』が愛読され、その理論が広く知られていたことには傍証も多い。これは、ル・ボンの理論が20世紀初頭には常識化していたこと、またナチス・ドイツはフランスへの敵対感情が強く、フランス人思想家の名を用いることを好まなかったとも考えられる。実際にナチスが用いた、群衆の感情を煽ることや、単純なメッセージを連呼すること、また敵を明確化して名指すことや式典の儀式化などのプロパガンダ戦略は、ル・ボンの群集心理論をほぼ着実になぞるものだった。

わが闘争(上)

アドルフ・ヒトラー (著)

平野 一郎 (著)

将積 茂 (著)

KADOKAWA

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