東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構特任教授 長井志江氏に聞く
第1回 認知神経科学とロボティクスの最前線を追究する原点

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

ものづくりへの興味、大学での刺激的な講義との出会い、そして人間の知能を理解するためにロボットを使う発想——長井志江氏は「認知発達ロボティクス」という学際的分野を牽引してきた。第1回では、長井氏の国内外の研究機関で重ねてきた実践の軌跡と、知能の再構成に挑むその研究姿勢について聞いた。

長井 志江(ながい ゆきえ)特任教授

長井 志江(ながい ゆきえ)

東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構特任教授。博士(工学)。構成的アプローチから人間の社会的認知機能の発達原理を探る認知発達ロボティクス研究に従事。自他認知や模倣、他者の意図・情動推定、利他的行動などの認知機能が環境との相互作用を通した感覚・運動信号の予測学習に基づき発達するという仮説を提唱し、計算論的神経回路モデルの設計とそれを実装したロボットの実験によって評価。さらに自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害者のための自己理解支援システムを開発。ASD 視覚体験シミュレータは発達障害者の未知の世界を解明するものとして高い注目を集める。Analytics Insight “World’s 50 Most Renowned Women in Robotics”(2020)IEEE IROS “35 Women in Robotics Engineering and Science”(2022)Forbes JAPAN “Women In Tech 30”(2024)などに選出。2016 年より CREST「認知ミラーリング」、2021 年より CREST「認知フィーリング」の研究代表者。

目次

大学理工学部の講義がロボット研究のきっかけに

都築 正明(以下――)先生は、群馬県ご出身ですね。

長井 志江氏(以下、長井)はい。群馬で育ち、高校まで地元で学びました。女の子らしい遊びはあまり好きでなく、サッカーのボードゲームで遊んだり、プラモデルを組み立てたりといった男の子っぽい遊びが好きでした。大きな戦艦のプラモデルをクリスマスプレゼントにもらって大喜びしたことをよく覚えています。当時から、細かいものを自分で組み立てることが好きでした。

初めてコンピュータに触れられたのは、いつのことでしょう。

長井 最初にコンピュータに接したのは、小学校低学年のころでした。1980年初頭でパソコンそのものが珍しく、まして家庭にある時代ではありませんでしたが、父が秋葉原でパーツを買ってパソコンを自作していました。アルミのフレームにキーのパーツを組み込んで自作キーボードをつくって、ブラウン管のテレビに繋げていたのを、ずっと見ていたのがコンピュータや機械に興味を抱いたきっかけです。

先生もやがてプログラミングをされるようになったのでしょうか。

長井 小学校の低学年から中学年のころ、パソコンのプログラムをイラストで解説した本をみながらアルファベットを順番に打っていったところ、自動車を運転するゲームができました。ソースコードを読めるわけではなく、唯一理解できたのは画面上に“#”で表現される道幅を、プログラム上で定義して変えることでしたが、自分で値を変えて難しいコースをつくったりしていました。中学校ではバスケットボール部に所属していましたし、高校のころは普通の女子高生としてアルバイトをしたりしていましたから、本格的なエンジニアリングについて考えることはありませんでした。理系科目が得意でしたので、大学は青山学院大学の理工学部機械工学科に進学しました。当時は自動車をつくることに関心があり、自動車メーカーに就職したいと考えていました。

学部生時代に、現在の研究に水路づけられることはあったのでしょうか。

長井 カリフォルニア大学ロサンゼルス校でドクターを取られて教鞭もとられていた富山健先生が、当時、青山学院大学の教授をしていらして、先生のロボット工学の講義を受けたことが大きな転機になりました。富山先生の授業が、とにかく面白かったんです。単方向の講義が多いなかで、学生の反応をみて、みんなが関心を抱いた内容をフレキシブルに教えてくださったりして。講義は日本語だったものの、板書や試験もすべて英語で行われていました。英語を共通語として、アメリカナイズされた日本人の先生からロボット工学を教わることが新鮮で惹きつけられました。私が学部に入ったころはまだHondaの二足歩行ロボットASIMO1も発表されていないころでしたが、工業用ロボットから人に近いロボットへと研究の主軸がシフトチェンジしつつある時期でしたので、材料工学や力学の研究室が多い機械工学科のなかから、ロボティクスの研究室に入ることにしました。

出会われた先生の影響が大きかったのですね。

長井 富山先生は2006年に青山学院大学から千葉工業大学に異動され、学生の指導に加えて、fuRo(Future Robotics Technology Center:未来ロボット技術研究センター)で研究されたり、大学全体の国際交流をサポートをされたりしていました。センターの研究員には、青山学院大学の同窓生が大勢います。

先生は、青山学院大学の修士課程を修了後に、大阪大学の博士課程に進まれたんですよね。

長井 修士課程修了後に、もとより関心を抱いていた自動車関係の企業に就職するか、大学でロボット研究を続けるかで悩みました。自分の性格を顧みて、決められたタスクや納期のもとで働くより、興味のあることを研究するほうが向いていると思いました。また、富山先生の授業が面白かったことから、研究だけでなく大学で教えることにも魅力を感じました。そして、博士課程への進学を目標に、ロボティクスや人工知能を専門に研究する研究室をいくつか訪問するなかで、ロボットをツールとして用いて人間の知能を研究している、大阪大学の浅田稔先生の研究室を知りました。

人にものを教えることに関心を抱かれていたことにも通底しそうですね。

長井 それまでは人間が持つ知識をプログラムに書き下すことで、ロボットをその通りに動かしていましたが、うまく動かない状況も多くあり、改めて人間の知能の素晴らしさに興味がシフトしていた時期でした。人間を理解するために工学的手法を用いる浅田先生のアプローチは、そうした私の関心にピンポイントで一致しました。私が浅田研究室に入ったのが、ちょうど先生が認知発達ロボティクスを提唱された時期でした。

当サイトでも取材した栗原聡先生も仰っていましたが(「来るべき人とAIとのインタラクション 慶應義塾大学理工学部教授 栗原 聡氏に聞く(1)」)、浅田稔先生や石黒浩先生などがいらっしゃる大阪大学は、当時からAIやロボットの研究の一大拠点ですよね。5年前に設立された社会技術共創研究センター(通称:ELSIセンター)はAI倫理研究の中心ですし。

長井 私はずっと関東で過ごしてきましたから、関西特有のカルチャーに馴染めるかに不安を抱いていましたが、温かく迎え入れていただき、有意義な環境のもとで研究することができました。

研究のドメインはAIBOから人へ

浅田稔先生の研究室に入られた当初は、どのような研究をされていたのでしょう。

長井 浅田先生の研究室に入った当初は、多くの学生がロボカップ1に向けた研究をしていた時期でした。私はAIBOリーグに携わるチームに入りました。まだAIBO2が製品化されていないころで、SONYからプロトタイプを借りて、日本では東京大学と大阪大学の2チームしかないなかで研究をしていました。当時のAIBOは運動を作り込むことも難しく、ボールのオレンジ色を知覚したら、チームすべてのロボットがそこに突進するという幼稚園児のサッカーのようなことしかできませんでした。そこで私は、AIBOの鼻先に搭載されたカメラで他のロボットの顔の向きを判断して、パスを受けられるスペースに動くような共同注意に基づく協調行動を学習させることを試みました。ただ、ロボカップのAIBOリーグだけで研究を続けていくことの困難さもありました。

それは、どうしてでしょう。

長井 大会があると、試合に勝つことも考えなければなりません。浅田先生の研究室では強化学習をメインとしていて、車輪型の中型ロボットでは研究成果を実践に応用していたのですが、当時のAIBOはロボットを作動させることもままなりませんでしたから、ハンドコーディングでプログラムを書き込んで大会に臨むことが多くありました。その過程で、人の認知や知能を知りたい私自身の研究意図とロボカップに勝つこととの間に乖離が生じてしまいました。

そこで、研究のドメインを変えられたのでしょうか。

長井 ロボカップからは距離をおいて、共同注意や意図理解能力の獲得といったことを、他のヒューマノイドロボットを用いて研究することを考えました。人間の発達をロボットとして再構成することで、発達の仕組みを理解する研究を新たにはじめたのです。5年間かけて博士号を取得しました。

博士論文のテーマはどのようなものだったのでしょう。

長井 博士論文は、共同注意という、人がアイコンタクトしたり同じものを同時に見つめたりするような、生後1年半から2年目くらいに現れる能力についての研究でした。浅田先生の認知発達ロボティクスの考え方に基づいて、人の発達段階をロボットで再構成する研究です。

人と機会に恵まれつつ認知発達ロボティクスの国際共同研究をリードする

博士課程を修了された後、情報通信研究機構(NICT: National Institute of Information and Communications Technology)けいはんな情報通信融合研究センターでのお仕事もされていますよね。

長井 博士課程の研究が進み、その後の進路を模索していた時期に、ちょうどNICTに認知発達ロボティクスを研究するグループがあったので、そこに専攻研究員として赴任しました。

その後、ドイツのビーレフェルト大学の研究員になられます。

長井 NICTで働いていたころ、ビーレフェルト大学が開催したワークショップに招待され、私の共同注意に関する研究について発表する機会をいただきました。その際に、同大学のロボティクス研究室には、発達心理学や言語学の研究者が一緒にいて、子どもの発達を解析したり、AI技術を使って新しい実験を創りだしたりと、私が大阪大学で取り組んでいた認知発達ロボティクスと親和性のある学際的研究が行われていることを知りました。懇談会の席で、同年代の女性研究者に何気なく、いつか海外で研究したいと話したら、その翌日にワークショップのオーガナイザーだった教授が私のところにいらして、給与の出るポスドク研究員として招聘するというオファーをいただきました。NICTとの雇用契約も期限つきでしたので、約1年後にドイツに渡りました。

ビーレフェルト大学には3年半ぐらいいらしたのですよね。

長井 当初は1年ほどの滞在予定でしたが、研究においても生活においても居心地がよく、延長を相談していたところ、2年目ぐらいにHonda Research Institute Europe GmbH(HRI-EU)という、HondaのEUでの研究開発拠点とビーレフェルト大学とがCoR-Lab(Research Institute for Cognition and Robotics)という研究機関を設立して認知ロボティクスの共同研究をはじめるので、そこに応募するようアドバイスされました。そこで自分のプロジェクトを立ち上げるための申請書を提出し、採択され、CoR-Labでの研究がスタートしました。ビーレフェルト大学の先生は、私がドイツを離れる年に大学総長になられたのですが、マネジメントにも長けている方でした。CoR-Labが設立される際には、日本からHonda Research Institute(HRI)の上層部の方々がいらっしゃったのですが、ロボティクスやAIを専門とする方ではないので、私が日本語で通訳しつつアテンドするという大役を任されることになりました。開設式にはデュッセルドルフから日本総領事がいらっしゃるという一大イベントです。当時のビーレフェルト大学では、AIやロボティクスを研究しているほぼ唯一の日本人でしたし、博士論文の指導教員であった浅田先生も海外で業績を出されていましたので、さまざまな場で重宝されました。

その後、帰国して大阪大学に戻られます。

長井 CoR-Labのプロジェクトの終了がみえてきたころに、ドイツの同僚とともに日本で開催された国際会議に参加する機会がありました。そこで大阪大学の浅田稔先生と石黒浩先生の研究室を訪れたところ、石黒先生から特任准教授として勤務してほしいというお声がけをいただきました。当時、石黒先生が代表を務められていた教育研究拠点プログラムが文部科学省のグローバルCOE1に採択されて、国際的かつ学際的プロジェクトが立ち上がるときで、私のマネージメント能力や海外経験も評価してくださって、運営のサポート役として来てほしいとのことでした。グローバルCOEの特任准教授として大阪大学に戻ってきたのが2009年のことです。

その後、情報通信研究機構脳情報通信融合研究センターの研究員をされてから、東京大学に来られたのですね。

長井 2019年に、東京大学が設立した国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(英名:International Research Center for Neurointelligence、略称:IRCN)の特任教授に着任し、認知発達ロボティクス研究室主宰として現在に至ります。