答えなき時代の思考術──ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション
第1回 執着に塗り固められた分断の壁

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

既成概念との格闘によってもたらされた知性

先に断っておくが、ジョー・ストラマーはわたしのアイドルであるし、ザ・クラッシュの「London Calling」は30年来の愛聴盤だ。
彼がライブのあと、会場にのこってファンたちと朝まで語らったことや、日本からイギリスまで訪ねてきた一介のファンを自宅に泊めたことなど、その人柄を表すエピソードには魅力的なものが多い。
ジュリアン・テンプルが監督したドキュメント映画『ロンドン・コーリング ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』で見た、そういう誠実な姿は深く強く印象に残っている。

とはいえ、ジョン・ライドンの鋭さこそいつもわたしの思考を導いてきた灯火であった。
たった1枚しかアルバムを残さなかったセックス・ピストルズの「勝手にしやがれ」を、兄のレコード棚からこっそり抜き出して、プレーヤーに置き針を落とし、やがて聞こえてきたその無手勝な歌声に「なんて自由なんだ」と脳天を打たれ、1990年代のパンクリバイバルの頃に「過激なパックファッションなんか、みんなでやれば制服みたいなもんだ」という指摘に目から鱗が落ち、ピストルズ再結成については「金儲けのため」(その名も「Filthy Lucre Tour(汚い銭ツアー)」)と言ってのけて、ファンのためだのと言い募り世界ツアーを繰り返す数多の懐メロ・ロックバンドを揶揄してみせて、大笑いさせてくれた。

ライドンの発言は一見すると挑発的なだけにみえるが、その実、深い洞察があり、あらゆる偏見から自由であり、多様性をまるごと飲み込んだような含蓄がある。こういう人をわたしは知識人だと思いたい。

ライドンがそうした人格を身につけたのはその生い立ちに多くの原因がある。
Still a Punk: ジョン・ライドン自伝』(竹林正子訳/ロッキングオン)を読めば、その知性が社会の既成概念との格闘によってもたらされたものであることがよくわかる。そして、そのメッセージはふざけたようにみえて、命懸けであることもわかる。

今年の3月、東京と大阪で開催されたライブイベント「PUNKSPRING」に、ピストルズも来日し演奏を行ったが、そこにはジョン・ライドンはいなかった。
スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、グレン・マトロックという──シド・ヴィシャス以前の──オリジナルメンバーに加え、フランク・カーターがボーカルに迎えられたこのピストルズに対し、ライドンは不快感を露わにして「カラオケのような茶番」と述べている。
この3人とライドンには長い間の係争がある。

「自分こそがピストルズ」だとライドンは言う。わたしもそう思う。あのボーカリゼーションこそパンクのアナキズムの象徴であり、挑発的なステージングが反逆の意味を明確にさせるものだからだ。歌詞や曲調もすべてはそれを支える手段だと思う。

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