AIが拡げる生命科学の可能性─藤田医科大学教授・八代嘉美氏に聞く
第2回 テクノロジーは生命と倫理を変えるのか

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

生命の倫理をどう捉えるか

生命については、リテラシーだけでなく倫理の問題も大きく関わってきますね。

八代初期のES細胞の研究では、ネズミの胎児の細胞に放射線を当てて、フィーダー細胞という細胞にとって居心地のいい寝床のようなものをつくる必要がありました。そこでヒトの受精卵から採取した幹細胞を培養するのですが、ES細胞の研究について審査する委員会で、ヒトの身体から採取した細胞とネズミの細胞とを共培養することの道徳的意義についてどう考えるのだと倫理学者に問い詰められた研究者がいました。もちろん人の尊厳について、ひいてはヒト由来の細胞を用いるときの配慮の重要性について言いたかったのだということはわかります。しかしそれは、倫理学の素養がある人が専門分野のフィルターをかけるゆえに、そこに道徳的な価値を見出しているわけです。現場で研究をしている視線でみると、ヒトの細胞もネズミの細胞も核のある半透明の細胞として存在していて、実験の対象としては両方とも等価値です。こんにち、研究を行う際には倫理教育は重要視されていて、ヒト由来のサンプルの取り扱いに配慮することは大前提となっているのでこれは極端な例ではあるのですが、それを取り除いてしまえば、同じものであっても見る人によってまったく違う像に見えるわけです。

その人の持つ生命観が反映されるということですね。

八代生命をつくるというのは、それだけ多角的な方向から見ることができるということです。最近はスペキュラティブ・デザインのように、細胞やDNAをアートに取り込んで、生命科学を人文的な観点から考えることもされています。そこからは、またさまざまな生命の観点もできてくるだろうと思います。

ES細胞のように胚を傷つけることについては、キリスト教保守からも批判があります。アメリカで“史上もっともプロ・ライフな大統領”を自称するトランプ氏が大統領に就任することで、そのあたりがシビアになりそうな気もします。

八代 アメリカ全体はとても合理主義的な国ですから。トランプ氏が大統領になっても、どれだけベネフィットを生むかどうかが判断材料になると思います。かつては受精卵について倫理的・道徳的な宗教的価値観に基づいたストーリーのもとで語ることが保守的な倫理観を持つ人々に受け入れられてきましたが、今後はおそらくそうはならないと考えています。受精卵に手を加えるのはよくないことだという図式を持っている人もいますが、かつてのような深い宗教的意義に基づいたものではなくなっている気がします。実際には、アメリカが医薬品で世界を勝つためには必要だとする前政権からの規制緩和のスキームが継続されるでしょう。政権が変わることで、従来のような受精の研究がしづらくなることは、考えづらいと思います。

やはり国力とマネタイズが前景化することになるのでしょうか。

八代その一方、ワクチンのようにエビデンスがあるものでも、自分の周囲にある情報だけで判断する人たちには理解されづらいという面もあります。インフルエンザの予防接種についても、周囲にインフルエンザ患者がいないからという理由で接種しないことが往々にしてあります。そこには作為と不作為のリスクの見えやすさが違うという理由もあります。インフルエンザワクチンの例にしても、接種することで感染者が広がる不作為のリスクは看過されがちですが、接種により生じる副作用などのリスクは可視化されますから、そこに非対称性が生じます。

そうした対称性バイアスは、あらゆる場面で顕れている気がします。

八代一般の人たちにとってALifeやライフゲームが縁遠いものとして見られるのと同じように、シミュレーションの世界に現実感を抱くのは難しいところです。しかし、大きな議論をしていくには、そうしたギャップを埋められるよう伝えていくことが重要で、生命科学においても同じことがいえます。

トランプ大統領やビッグテックのトップは、人口減少について大きな危機感を抱いていますから、出生についてのテクノロジーには大きく後押ししそうです。

八代人工妊娠中絶反対と生殖補助医療とは、かつての価値観でいえば同じナラティブのうえで語られていたのですが、いまはそれぞれ別個の議論になっています。生殖補助医療については、望めば誰でもしてよいという価値観になっていますし、ES細胞は受精卵ではないのでプラグマティックに使ってよいことになっています。ですから、ジョージ・ブッシュ政権のときにもES細胞の研究は中止されませんでした。アメリカの富裕層やテック・エリートたちは、合理的にそうした切り分けをしています。

人工中絶や不妊治療をめぐる議論は、いまはイデオロギーの話になってしまっているところがありますね。

八代 再生医療や生命科学についても、同じような図式があります。

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