MUCA展、「ワーニャ」、「悪は存在しない」
不自由なのか、孤独なのか?

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テキスト 桐原永叔
IT批評編集長

答えではなく希望を

『ワーニャおじさん』のみならず、アントン・チェーホフはみずからの戯曲に安易な解答もメッセージも託していない。そうでなくとも「喜劇問題」という、示唆がなさすぎて自由な解釈が許されるゆえに負荷の高い問題を残していったのだ。

『100分de名著 チェーホフ「かもめ」2012年9月』(ムック/NHK出版)のなかで文学者の沼野充義は、チェーホフは答えとなる悲劇的な進行の決着を描かないと述べている。読み解きのヒントになるようなドラマチックな出来事も舞台上では発生しない。トレープレフの自殺は銃声のみで示唆される。

ただし、チェーホフはエンディングにちいさな希望を置く。それは皮肉ではなくほんとうに心に沁みるものだ。答えをはぐらかすが絶望を残すわけではないのだ。これだけ答えだけを求められる時代にチェーホフを観る意味はそこにもある。

チェーホフの戯曲の喜劇性は登場人物間のディスコミュニケーションにある。『100分de名著〜』でも1章を割いてふかく考察されているが、登場人物たちの互いに対する小さな誤解や憧れや蔑みが、彼らの承認欲求を滑稽なものにしている。

NTライブの「ワーニャ」でもその部分は十二分に演出されており、一人芝居であるがゆえにある種、落語的な滑稽さが際立ってもいた。事実、劇場内に大きな笑いが起きていた。

ずいぶん、話があっちこっちに行ってしまった。最後にもうひとつだけ述べておきたいのは、『ワーニャおじさん』を重要なモチーフにした名作「ドライブ・マイ・カー」を撮った濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」もまた悲劇とも喜劇ともいえる物語だったのだ。ネタバレは避けなければならないが、この映画作家もこの映画に安易な答えを提示してはくれない。都市の論理と山村の伝統という図式的な構成をすこしずつ崩しながら進行する。

主人公は森の住人であり一人娘と暮らしている。その情景も、どこかチェーホフを思わせる。ロシアの深く暗い森林を思わせるシーンも多いせいだろうか。「悪は存在しない」でも、劇場内に大きな笑いを起こしたシーンがあったことも付記しておきたい。

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山村の伝統などといっても、たかだか戦後の数十年でつくられたものだと率直に述べられるし、都会の論理を持ち込む側にも確たる根拠がない。正当性がどこからも得られない現代の縮図というわけだ。そういう意味で非常に今日的な映画であり惹き込まれた。

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いまはここまでにとどめておこう。

100分de名著 チェーホフ『かもめ』 2012年9月
[語り手] 沼野充義
NHK出版
ISBN978-4-14-223018-1


悪は存在しない
監督:濱口竜介
音楽:石橋英子


わたしたちはどうしてこんなにも不安なのか、孤独なのか、いったい何から疎外されているのか。近代をめぐって、そのテクノロジーと政治、経済をめぐってずっと考えている。

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政治や経済を変えうるものはなんだろうか。それは啓蒙的なイデオロギーではない。

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リベラルアーツやらの教養主義も、テクノロジーも、多くの人たちをして自由から逃走させてしまう。安易な答えを避けても、その意味を考えるのは一部の人だけで、多くはすぐに飛び付ける安易な答えが欲しいだけ。

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そんな時代に必要なのはなんなのだろうか?

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