科学者たちの複雑な心理を考える
映画『オッペンハイマー』をめぐって
歴史的大義と科学者のジレンマ
映画『オッペンハイマー』で原爆の開発と投下に対する大義として挙げられるのは、「原爆投下によって早期に戦争を終結し、さらなる犠牲者を減らす」という論拠だ。これについては、ポツダムでトリニティ実験の成功の報を聞き、兵士たちに向かって「家に帰る時だ」といったトルーマン大統領──映画ではゲイリー・オールドマンが快演──や、さきに述べたルメイも「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」と言い残している点でもひとつの考え方として定着していたことがわかる。
現在でもアメリカ人の多くが決定的な兵器が戦争の趨勢を決定して犠牲者を減らすという論理に納得している。戦争を始めたのは日本人であり、その残虐さと執拗さは戦争が継続する分だけ、日米双方に大きな犠牲者をだすだろう。1945年11月を予定していた本土上陸では、沖縄戦の数十倍の犠牲を覚悟していたとされる。
この論理で考えを進めれば、当時の軍部によって死に向かわせられていた日本人の命さえ救ったのだということになる。現在もそう考えるアメリカ人は多い。日本人が死に向かったのには、軍部に限らず〈近代の超克〉といった言論の力も大きなものだったと考えられるが、今回はそこには立ち入らない。
この「最新兵器による戦争の早期終結」という論理は、第二次世界大戦以前からあったものだ。第一次大戦に登場した毒ガス兵器マスタードガスの開発にかりだされた化学者たちにも同じ論理が適用されたのだ。
原子爆弾を生み出す最初の一歩となった核分裂をリーゼ・マイトナーと発見したオットー・ハーンは、第一次大戦中はガス作戦に従事していた。
1938年の核分裂の発見は、世界中の物理学者に衝撃をもってむかえられた。映画『オッペンハイマー』においても物理学者たちが新聞をつかんで大騒ぎするシーンが描かれていた。その爆発的なエネルギーが巨大な爆発を伴う兵器に転用できると考えた物理学者も世界中にいた。もっとも初期にそのことに気づき動き出した人物にハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラードがいる。映画『オッペンハイマー』ではけっして重要な役どころではないが、2回、登場していた。一度はシカゴ大の地下の研究室でフェリミの助手として、二度目は無警告の原爆投下の阻止を訴える嘆願書にオッペンハイマーの署名を求めるシーンだ。レオ・シラードはユダヤ人であり、早くから原子爆弾をナチスが開発することをなによりも恐れていた。アインシュタインの署名を得てルーズベルトにアメリカにおける原爆開発を急がせた人物でもある。わたしなどは、ここにも科学者の複雑さを感じてしまう。
レオ・シラードは映画『オッペンハイマー』での扱いのとおり、それほど大きく取り上げられることがない人物である。物理学者としての実績が並み居る天才たちに及ばないこともある。しかし、同じくハンガリー生まれのユダヤ人ジョン・フォン・ノイマンと並んでハンガリー生まれの宇宙人──それほど飛び抜けた頭脳の持ち主──と称されることもあるほどの人でもある。
このレオ・シラードを狂言回しのようにして、量子物理学の革命からマンハッタン計画、そして原爆投下作戦までを漏らすことなく描いたのが、リチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』上下(神沼二真、渋谷泰一訳/紀伊國屋書店)である。
第一次大戦におけるガス兵器や都市部への空襲といった作戦の登場から、量子革命と核分裂、ルメイも登場するアメリカ航空隊の作戦行動、投下場所を決める標的会議の様子、原爆をテニアン島に運んだあとに日本海軍の潜水艦に沈められ悲惨な最後を遂げたインディペンデンス号の事件までほとんど言及すべきすべてが網羅されている。
ローズは、マイケル・フレインの名作戯曲の元になったボーアとハイゼンベルグの会談についても詳述する。ナチスの監視を警戒しながら交わされる会話の真意は、ハイゼンベルグがのちに述べたように「ナチスはこの戦争中には原爆は完成できない」というサジェストだったのか、それともボーアがそのときに受け取った「ナチスは原爆を開発するから協力してほしい」というメッセージだったのか。どちらにも信憑性があり、あたかも羅生門状態である。フレインが戯曲のテーマにするのもよくわかる。
ピューリッツァー賞を受けた『原子爆弾の誕生』のサイズはA5判で上下あわせて1500ページほどになるが、非常に面白い。ソビエト崩壊前の内容とはいえ、じゅうぶんに現代の読書にたえうる、というかこれ以上の原爆関連の本を知らないぐらいだ。
より原子爆弾の仕組みをふまえて知りたいのなら山田克哉の『原子爆弾 その理論と歴史』(講談社ブルーバックス)を忘れずに推薦しておきたい。『原子爆弾の誕生』にもすこししか登場せず、映画『オッペンハイマー』に至っては登場さえしないフォン・ノイマンは、長崎に投下されたプルトニウム型爆弾の起爆装置が、広島に投下されたウラン型爆弾のガンバレル方式ではうまくいないとわかり行き詰まったとき、オッペンハイマーからロスアラモスに呼ばれたと述べられる。「トマトを『こわさずに』つぶす」と見出しにいうとおり、それだけ難しい起爆について爆縮レンズを開発しインプロージョン式を実現したのがフォン・ノイマンだったのだ。
ローズ,リチャード (著)
神沼 二真,渋谷 泰一 (翻訳)
紀伊國屋書店
ISBN:9784314007108
ローズ,リチャード (著)
神沼 二真,渋谷 泰一 (翻訳)
紀伊國屋書店
ISBN:9784314007115
山田克哉 (著)
神沼 二真,渋谷 泰一 (翻訳)
講談社ブルーバックス
ISBN:978-4-06-257128-9

