科学者たちの複雑な心理を考える
映画『オッペンハイマー』をめぐって

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

科学者はなぜそうするか?

実はこのレビュー記事においても一度、原子爆弾の話に触れたことがある。ちょうど3年前の「#09 AI研究開発は今世紀の核軍拡競争となるのか?」において、AI軍拡競争が危惧されるなかで、かつての冷戦を振り返り、先進科学と先端技術の粋を極めた原子爆弾をめぐる大国の攻防を参照したし、原爆の研究開発にあたっては、リチャード・ファインマンといった若き物理学徒──アトランティックレコードのプロデューサーであったトム・ダウトまで!──がアメリカ中からロスアラモスに集結していたことや、日本でも原爆開発が試みられたいたことも述べておいた。それにボーア、ノイマン、アインシュタイン、フェリミ、ハイゼンベルグといった錚々たる天才のみならず、クラウス・フックスといった人物にも言及した。

ボーア、ノイマン、アインシュタイン、フェリミ、ハイゼンベルグはこのレビュー記事においてはもはや常連と呼べるほど言及することが多い人たちだが、ノイマンをのぞいてすべてが映画『オッペンハイマー』に登場する。わたしなどはそれだけで画面に釘付けになってしまったのだが、映画のテーマとは関係ない話だ。

映画自体は、非常に複雑で容易には理解し難い天才の心情を描き切ったという点で質の高いものだった。科学者の倫理観や天才の悔悟に焦点をあてて反戦や反核といったメッセージとしてまとめることは、誤解を恐れずにいえば映画としてそれほど難しいことではない。そのために、被爆地の悲惨な状況をスクリーンに再現してその過酷さを体感させることもさほど困難な演出だとは考えない。いやそういう演出をすれば、この映画の重要な部分が損なわれるのではとさえ思う。

ノーランが描こうとし、さらに倫理観や科学の悪魔性以上に深刻なテーマとなるのは、そのスキゾフレニアな──映画は、「FISSION(核分裂)」「FUSION(核融合)」という2つの視点から描かれる──複雑さをもつ人間の知性と理性のあり方だ。ここにこそ、現在のAIなどの先端テクノロジーに携わる人間の知性、理性を考えるうえで大きな示唆がある。わたしたちはひとつのアイデンティティに基づいて生きてはいないし、悪意や無関心は善意(倫理)の対照としてあるのではないし、知識への情熱もけっして悪意や善意を反映するものではない。

原爆開発にかかわる科学者のドラマは以前の記事でも言及したマイケル・フレインの戯曲『コペンハーゲン』(小田島恒志訳/ハヤカワ演劇文庫)という名作が先行例としてある。歴史上の事実である、ナチス占領下でのボーアとハイゼンベルグの対話を描いているのだが、ハイゼンベルグの態度はどちらともいえず揺れているようにとることができる。それはもしかしたらオッペンハイマーと対をなすものかもしれない。

『生成AI時代の教養』での野家啓一先生のインタビューで、わたしと先生はこんなやりとりをした。この書籍の重要なテーマ(通奏低音)でもあるし、『オッペンハイマー』にある人物の描き方も通ずるものがあるので、長いが引用してみよう。

桐原 私が技術に触れつつ覚えていた危うさや違和感は、やはり先生のおっしゃられたような哲学的なアプローチから払拭されるべきだと改めて思いました。技術の進歩は後戻りをしません。不安感や疑問を抱いたとしても立ち止まらずに先に進んでいってしまう。

野家 技術というのは、発見されたり発明されたりすると、それ以前には戻れなくなるんですね。そうすると、結局その新しいものをどう使うかという話になってきます。倫理や哲学というバックグラウンドがないと、その技術をどう使うかについて、きちんと筋道を立てて考えていくことができない。ChatGTPの問題をはじめ、今はそのような状況に入りつつあるのではないかと思っています。

桐原 お話を伺って、後戻りができないからこそ、今までの科学技術を見直したり、科学が輸入された経緯まで遡って反省したりということが、私たち日本人にとって重要なのだと思いました。そこは日本の近代化を考え直すこととも通底しているように感じます。

『生成AI時代の教養 技術と未来への21の問い』(桐原永叔・IT批評編集部編著/風濤社)

マイケル・フレイン Ⅰ コペンハーゲン

マイケル・フレイン (著)

小田島恒志 (翻訳)

早川書房

ISBN:9784151400285

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