AIの倫理とその再配置を考える 第1回
私たちはなぜAIに倫理を求めるのか

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

AIをめぐる議論には、必ずといっていいほど“倫理”という言葉が顔を出す。既存の技術論や法制度では補いきれないなにかを、私たちはそこに見ているのかもしれない。ツールでありながら人のように振る舞う“人工主体”としてのAIに、なぜ私たちは倫理を求めるのか。

目次

私たちはなぜAIに倫理を求めるか

AI議論の定番キーワードとしての「倫理」

人工知能をめぐる議論のなかで、改めて取り沙汰されるのが“倫理”という言葉である。少し前からCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)や、2015年に国連で採択されたSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)、また“エシカル消費”などのタームが巷間にのぼることはあったものの、ことAIにかかわる話題においては論点セットとして倫理という言葉が併置される。

学校教科としての“倫理”は、国立大学の2次試験や私立大学入試ではほぼ「使えない」教科とされており、大学入試共通テストでは2025年から“倫理・公共”という科目に置き換えられたりもしているにも関わらずである。

古典哲学におけるエートスと現代AI倫理

倫理(ethics)は、もとは個人の性向を示す古代ギリシャ語のエートス(ē̃thos)から派生した言葉で、アリストテレスが説得術の3要素として論理(ロゴス)・信頼(エトス)・情熱(パトス)を挙げて幸福や善、正義を論じ、息子ニコマコスらが『ニコマコス倫理学』(渡辺邦夫・立花幸司訳/翻訳光文社古典新訳文庫)を遺稿として編纂して道徳哲学の含意を持つこととなる。

ニコマコス倫理学

ニコマコス倫理学

アリストテレス 著

高田 三郎 訳

岩波文庫

ISBN:978-4003360415

AIをツールとして見ることへのゆらぎ

スピノザ『エチカ』に学ぶ汎神論的視座

“ethics”と同義のラテン語“ethica”を題した『エチカ』(畠中尚志訳/岩波文庫)においてスピノザは、ユークリッド幾何学の定義・公理・定理の形式に倣い、人間を含む自然と神とを同一視する汎神論のもとで、精神と物体も唯一の実体である神の異なる表現として説明する。

精神と身体の心身問題、機械論と自由、幾何学的精神と宗教的精神などの分裂をすべて統合することを目したこの書においてスピノザは、神や自然は必然的な動きをしているという機械論的世界観を呈示し、世界のすべては定められているのだとする決定論を導き出し、デカルトの心身二元論を批判する。そして、人も万物とともに必然的なものとして――永遠の相のもとに――神の意志のもとにあることを理性的に直観することで、別様の世界の存在を想起して悩むことなく、幸福に過ごすことができるのだとする。

アインシュタインは、1954年にドイツの哲学者エリック・グートキントに宛てた書簡で、神について「人間の持つ弱さが生んだ産物以上の何ものでもない」とし、聖書についても「子どもじみた原始的な伝承の寄せ集めに過ぎない」と断じるとともに、ユダヤ教についても「他の宗教と同様に幼稚な迷信の化身だ」としているが、スピノザの汎神論については肯定的だった。

量子論からAIへ──「神はサイコロを振らない」が示す必然性と偶然性

量子論を唱えたマックス・ボルンに宛てた書簡において、量子力学が物理法則において曖昧さや偶然を孕むことを指摘して記した「神はサイコロを振らない(Gott würfelt nicht.)」という言葉は有名だが、ここでアインシュタインが想定しているのは、自然界の秩序としてのスピノザ的“神”である。アインシュタインを説得しようとしたニールス・ボーアはボルンに代わって「神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを貴方が語るなかれ(Schreiben Sie Gott nicht vor, was er tun und lassen soll.)」と反論しているが、ボーア自身は無神論者である。

AIの法的人格と社会的承認のはざまで

人と人とが相見える医療や、人と人の集合である法人との関係ではなく、これほどまでに倫理が喧伝されることには、法制度や社会規範のうえでは人格権を認めないながらも、やはりAIを完全にツールとして見做すことができない“ゆらぎ”が看取できるようだ。

エチカ―倫理学

エチカ―倫理学

スピノザ 著

畠中 尚志 訳

岩波文庫

ISBN:978-4003361542