情報戦略は私たちを誘引する
戦争と政治における心理
敵を味方に、味方を敵にする心理プロファイリング
敵に向けられていた心理的トラップが、自軍に向けられた次はどこが標的になるか。それはより身近な市民1人ひとりである。カール・シュミットが『政治的なものの概念』(カール・シュミット 著 , 権左武志 訳 岩波文庫)で論じたような、混乱のなかの例外状況を擬制しつつ、そのなかで味方と敵を峻別する友-敵理論が持ち込まれる。そこで生じるのは、恣意的な分断だ。
かつてこうした操作は中傷ビラを撒くことで行われていたが、ネットの登場により大規模かつ効率的に行うことが可能になった。そこで用いられるのは個人の心理をターゲットに情報操作を行う「マイクロ・ターゲティング」の手法だ。
まず個人の情報や行動特性から認知バイアスを推定してターゲット層を絞る。そのうえでそれぞれの層に影響を及ぼしやすいメッセージを集中して流し、個人の認知的不協和を促す。その後、認知的不協和へのワクチンとして対抗ナラティブを投下するというスキームだ。
ネットのアクセス履歴などのビッグデータと機械学習を用いて個人ごとの心理プロファイリングを用いれば、これを集中的かつ効果的に実行することが可能になる。
1990年にコンサルティング会社としてイギリスで発足したSCL(Storategy Communication Laboratories:戦略的コミュニケーション研究所)は、主に軍部をクライアントとしてNATOの対テロ工作に関わってきた。
2010年代からは、選挙活動への介入を請け負うこととなる。ベンチマークとしたのはアメリカのデータマイニング企業パランティア・テクノロジーズ。米軍、国防総省、FBI、CIAなどを顧客に抱え、機密案件を数多く扱っていることでも知られているこの企業を創設したのは前々回でも紹介したピーター・ティールだ。
多くのテック企業に出資する投資家であり「自由と民主主義は両立しない」と主張するリバタリアンでもあるティールは、シリコンバレーのテック企業のCEOを「テクノ封建主義体制の君主」と称したこともある。
SCLは、携帯電話の通話記録やSNS上のデータを用いてトリニダード・トバゴでスパイ活動を実施する。ここで成功体験を得た同社は、アフリカの国々で選挙運動のプロジェクトに介入することになる。市民の不安と憎悪を煽りつつアイデンティティを操作するノウハウを重ねていったのだ。
当時アメリカの保守ニュースメディア「ブライトバート・ニュース」の執行役員だった――のちにドナルド・トランプ大統領選の最高責任者となる――スティーブ・バノンが新たなクライアントになったことで、SCLの活動はさらに巨大化・深刻化することとなる。
アメリカでの事業展開のためにケンブリッジ・アナリティカ(CA)を設立し、Facebook上に設けた性格診断アプリを経由して、回答者ならびにその友人を含む8,700万人の個人データを取得し、不正に得たその他の機密情報と照合しつつ解析し、心理操作を行う。典型的には、オルタナ右翼と親和性の高いインセル(involuntarily celibrate:非自発的禁欲者)男性――日本でいう“非モテ”や“弱者男性”とニュアンスが近い――がポリティカル・コレクトネスのもとで秘めた女性嫌悪や同性愛嫌悪、人種差別感情をあぶり出し、顕在化する例がある。
バノンは2016年の大統領選で共和党候補のドナルド・トランプの選挙対策本部長に任命され、白人労働者層の取り込みと民主党へのネガティブ・キャンペーンを流布させる。
ヒラリー・クリントンがオフィシャルなメールアドレスを私的に利用したことをきっかけに、CAとコネクションを持つロシアの諜報機関が民主党サイトをハッキングしたことは、のちに大きく問題化された。
ハッキングされて流出したクリントン陣営の選挙責任者であったジョン・ポデスタの私的メールの内容は、民主党関係者がピザ店を拠点として人身売買や児童性的虐待を行っているという虚偽情報にミスリードされ、名指しされたピザ店が銃撃されるという事態を引き起こした。
その他大量の民主党陣営の情報がWikileaksに掲載されたことから、ジュリアン・アサンジとCAやロシアの関係についても疑義が呈された。いずれにせよ、2016年11月にドナルド・トランプは選挙人獲得数により大統領に指名された。これは得票数で対立候補を下回っての勝利という、ジョージ・ブッシュ以来2回目となる異例なものだった。
またCAはブリグジットにあたっても離脱派をクライアントとして同様の心理プロファイリング戦を展開している。大英帝国時代を回顧する白人保守層だけでは国民投票に勝利することができないと考えたCA側は、有色移民をターゲットにおいて離脱派に取り込むことを画策した。
「現在のイギリスはEUからの移民は受け入れるが、それ以外の移民は排斥する」というのが、そこで用いられたロジックである。かくして、白人至上主義の愛国主義者と植民地国にルーツを持つ移民コミュニティとが手を結んでともにEUからの離脱を目指すという不思議な離脱派連合が誕生し、残留派と対抗することとなる。
両陣営の緊張はエキサイトし、国民投票を1週間後に控えた2016年6月16日に残留派の労働党下院議員ジョー・コックスが白人至上主義者に射殺されるという事態におよぶ。
両陣営は3日間運動を控える休戦協定を結んだものの、CAは傘下のカナダ企業AIQからデジタル広告を流し続けた。6月23日の国民投票では、離脱支持が52%、残留支持が48%という僅差でイギリスのEU離脱が決定した。
政治的なものの概念
権左武志 訳
岩波書店
ISBN:978-4003403020
