永劫回帰と再帰性、キッチュと偶然性
ミラン・クンデラから考える
再帰性と偶然性
この記事はだんだんと方向を見失っているのかもしれない。というのは、今回、クンデラやチェーホフを引っ張り出して話したかったのは、香港の哲学者であるユク・ホイが書いた『再帰性と偶然性』(原島大輔訳/青土社)についてだからだ。この本を教えてくれたのはIT批評で記者をしてくれている都築正明さんだ。彼にはいつもこうやって新しい知を紹介してもらう。
わたしは『再帰性と偶然性』にものすごい感銘を受けた。なぜなら、ここにはわたしの長年の知的な関心のほぼすべての要素が盛り込まれているからだ。
まずタイトルからして、再帰性という繰り返しと、偶然性という一回性を表しているではないか。著者はこの視点から、主にサイバネティクスを論じるのだが、その論点となるのは技術論のみならず、観念論であり実在論であり、西洋と東洋の思想であり、芸術でありと、ありとあらゆる知が導入される。
再帰的なフィードバックシステムである生物(有機体)をヒントにしたより大きな視点からの機械論こそがサイバネティクスであり、人間の脳を再現的、構成的に研究することでブレークスルーした人工知能はその最新の例のひとつだ。
機械や社会をより大きな視点、言い換えれば、よりメタな視点で観察、記述することを可能にしたサイバネティクスをして、ハイデカーは形而上学を終焉させるものと評したという。
そのうえでわたしが重要に思ったのは、再帰性と偶然性の位置付けによって歴史観のみならず価値観、倫理観に大きな差異が生じることだ。偶然も繰り返されれば、再帰となる。これがフィードバックシステムだ。人工知能で生じる創発やベルグソンのいうエレンビタール(生の飛躍)とは繰り返しを一旦は乱すが、それはフィードバックされて再帰のループに取り込まれる。ここ最近の言葉で言えば、それは偏在から遍在へと変化する。
ユク・ホイはホモデウスといったトランスヒューマニズムに強い警戒を示す。それをユダヤ-キリスト教的なものと論じる。この辺りは期せずして前回の記事でわたしも同じように書いた部分でもあるから、思わず膝を打った。トランスヒューマニズムの何が危険かと言えば、最後の最後にフィードバックできない偶然性が現れるからだ。それこそ偏在の根拠だ。
ユク・ホイはヘーゲルの弁証法を持ってきて、テーゼとアンチテーゼのループがジンテーゼに総合されることをもフィードバックとして論じる。しかしヘーゲルの歴史観こそ、歴史を終焉させる、つまり再帰のループを昇華し切るものではなかったか。そういえば、ユク・ホイは同書で大きな物語の終焉を論じたリオタールについても深く考察する。リオタールの秘められた可能性を引き出している。
テーゼとアンチテーゼというとき、わたしは敵対的生成ネットワークを想起する。敵対的生成ネットワークとは、AIのモデル学習において2つのニューラルネットワークを敵対させる手法をさす。生成AIと認識AIを競わせることでさらに高度なAIを生み出すのだ。生成AIが作った偽の画像を認識AIが正しく認識できるかということだ。これはまさに弁証法のようで、わたしはテーゼとアンチテーゼのループを構成しているように考える。
余談ついでだが、『存在の耐えられない軽さ』における重さと軽さのことも、AI学習の重みづけから類推してみるとことでちょっとした発見ができる。トマーシュはいつまでも自分の人生の出来事に重みづけすることができない。それはフィードバック学習をしないということであり、まさに一回限りの軽い人生なのだ。
話が逸れすぎた。ユク・ホイの『再帰性と偶然性』はものすごい本だ。わたしの力量ではこれを評することはできないし、論旨をちゃんと理解することも、ましてや要約することも叶わない。できれば多くの人に『再帰性と偶然性』を手に取ってほしいと思う。
ユク ホイ (著)
原島 大輔 (翻訳)
青土社
わたしは芸術における再現不能の一回性の美のことをずっと考えていた。悲劇的なそぶりさえ捨てて芸術を鑑賞できるのならば、そこにあるのは永遠性なのだ。一回にして永遠とは語義矛盾のようだが、それこそが芸術が芸術たる所以だとも思う。
まとまりがなくなった。この辺りにしておこう。
