永劫回帰と再帰性、キッチュと偶然性
ミラン・クンデラから考える

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

悲劇的なそぶり

キッチュについて調べ直そうと十数年ぶりに開いた『小説の精神』「七十三語」に面白い箇所を見つけた。それは喜劇への用語解説だ。こう書かれている(今回は引用が多い)。

人間の偉大さという美しい錯覚を私たちに与えたことで、悲劇は私たちに慰めをもたらす。それに比べれば喜劇は残酷である。一切のものの無意味さを情容赦なくあばきたてるからだ。〈中略〉喜劇の真の天才とは、私たちを精一杯笑わしてくれる人ではなく、喜劇の未知の領域といったものをあばいてみせる人である。

小説の精神』(金井裕、浅野敏夫訳/法政大学出版局)

ここを読んで思い出したのはチェーホフの戯曲のことだ。『かもめ』(浦雅春訳/岩波文庫)『ワーニャおじさん』(湯浅芳子訳/岩波文庫)『三人姉妹』(湯浅芳子訳/岩波文庫)『桜の園』(小野理子訳/岩波文庫)という4つの古典的名作をチェーホフは喜劇とした。最初の作品であり、自殺者まで登場する『かもめ』にはわざわざ「コメディ」と書き記す。

悲劇としか読み取れないこれらの戯曲を作者はなぜ「喜劇」としたのか。これは世界中の演劇人を巻き込み今の重要な議題に上る。いわゆる「喜劇問題」とよばれる。

それこそ『存在の耐えられない軽さ』の劈頭に倣えば次のように書けるだろう。

チェーホフは『かもめ』『ワーニャおじさん』『三人姉妹』『桜の園』をみずから喜劇とすることで、自分以外のあらゆる演劇人を困惑させた、と。

わたし自身も、演出家で劇団主宰者である旧友とのYouTubeの動画でそれについて議論したことがある。かいつまんで、わたしの解釈を述べておけば、喜劇と悲劇の違いは、生活視点と歴史視点の違いだということだ。

生活として日常に起きた出来事、事件は生活人のなかに取り込まれる。食事をし、排泄をし、セックスを求め、そしてサボることばかり考える生活のなかに。たとえそれが戦争であっても爆撃でもあっても生活のなかでは、人間の愚かさ無意味さは喜劇の対象となる。

対して、歴史として出来事、事件を捉えれば、それらは因果関係を突き詰められ本質的な意味を追及される。その深刻さこそ悲劇的であり、クンデラが言うように人間という存在が偉大であり進化の途上という歴史で見れば、この世は悲劇にあふれる。

チェーホフの喜劇問題をわたしはそんな点で解釈している。詳しくは動画を見てもらったほうがいいだろう(ちょっと恥ずかしいが)。

さて、ここにきてテーマが収斂している。そうなのだ。

歴史に悲劇性を感じることこそキッチュであり軽薄ではないか。かつてない──一回性の──悲劇たる歴史的な事件(とされる出来事)と見立てることにキッチュさは潜んでいまいか。繰り返される人間の──こう言ってよければ普遍的な──生活にこそ存在の重みを感じるのではないか。

いや、しかし多くの人は歴史のほうに、悲劇のほうに重みを感じるし、生活のほうに、繰り返しのほうに軽さを感じる。

時代の特異性を殊更にことあげする悲劇的なそぶりに潜むキッチュ、それが大嫌いだ。

かもめ

チェーホフ (著)

浦 雅春 (著)

岩波文庫

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ワーニャおじさん

チェーホフ (著)

湯浅 芳子 (翻訳)

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三人姉妹

チェーホフ (著)

湯浅 芳子 (翻訳)

岩波文庫

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桜の園

チェーホフ (著)

小野 理子 (翻訳)

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