永劫回帰と再帰性、キッチュと偶然性
ミラン・クンデラから考える
キッチュという開き直りの軽薄さ
クンデラのいう、あるいは疑う軽さを知るには、『存在の耐えられない軽さ』における重要な概念である「キッチュ」を考える必要がある。もともとは俗悪なもの、醜いものを指す言葉であった「キッチュ」はしかし、20世紀、高度に進化した資本主義社会の相対化のなかで、ある種の露悪的な、開き直りのような軽薄さを意味するようになり、かえってポジティブな意味に転じた。
日本のサブカルチャーなどキッチュがなければその魅力のそうとうな部分を説明できなくなってしまうだろう。ゴスロリやら、包帯ファッションやら、可愛いドクロやら、どれも海外から日本的な変態進化として評価されるサブカルチャーはキッチュなものばかりだ。
クンデラは『小説の精神』(金井裕、浅野敏夫訳/法政大学出版局)に収められた「七十三語」という用語解説ふうのエッセーで次にように書いている。文中の「キッチ」はキッチュのことである。ちなみに、英語でもドイツ語でもフランス語でも綴りは同じ〈Kitsch〉である。フランス語で「キッチ」と発音する。
プラハでは、私たちはキッチこそ芸術の最大の敵であると思っていた。フランスでは違う。ここでは真の芸術に対置されているのは娯楽作品である。偉大な芸術に対置されているのは軽い二流の芸術である。
少し説明が必要だろう。クンデラが憎むキッチュとは低俗な開き直りによって成り立つ自己肯定であり、捻くれた選民意識によるスノッブ根性だ。クンデラは「キッチはあばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」だと言う。
共産圏であったチェコスロバキアでは敵であったものが、資本主義社会のフランスではそうではなかった。資本主義ゆえにむしろ金儲けの娯楽作品が芸術の敵となっていた。その敵対関係は安直なものだ。
本来の自分から目を背け、みなが価値あるものと言い合うことで支えあうキッチュこそ、芸術を阻害する軽薄さではないか。軽薄さとは、儀礼的でありながら現代という時代をキャッチアップしていることを誇るだけのものでしかない。いや軽薄だからこそ、こうした身振りができるのだ。
わたしは、ビジネスパーソン向けの教養本、読書本をありがたがる似非インテリたちを忌み嫌っているが、それはまさにクンデラの憎むキッチュさゆえにだ。こうした本に漂うのは、捻くれた選民意識によるスノッブ根性でしかない。そんなものが教養になどなるはずがない。ただ開き直っているだけだ。
『存在の耐えられない軽さ』におけるトマーシュの放埒で淫蕩な生活はキッチュであり、サビナが嫌うプラハの春のデモの行進者たちがなぜ彼女にとってキッチュであるかも、ここでようやっと理解できる。
こうしてわたしたちの存在はキッチュに流されていく。そしてキッチュさゆえに、誰もがそれを憧れとする。
わたしはクンデラに倣って言おう。
だが本当にキッチュは素晴らしいことであろうか? 将来を憂うそぶりと幅広いだけの知識を持つ自分にうっとりするのはなぜか?
ミラン クンデラ (著)
金井 裕, 浅野 敏夫 (翻訳)
法政大学出版局
