ハイデガー、レヴィナス、木田元──哲学が照らすAIの倫理と技術の“自己運動性”
AIは人間を超えるのか?──ジェフリー・ヒントンが語る“制御不能な未来”

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

架橋不能な他者としてのAI

ハイデガーはよく知られているようにナチス党員であった。ナチスの支援でフライブルク大学総長に就任しており、ヒトラーを賛美する演説さえ行なっている。

そんなハイデガーにはその後、名を馳せるユダヤ人の弟子が何人かいる。彼らは師であるハイデガーあるいはその哲学と複雑な関係を保ちつつ自らの哲学を立ち上げていった。ここも前回の続きのようだが、もっとも有名なのがハンナ・アーレントでありハイデガーとは愛人関係であったし、頻繁な書簡の往復があったこともよく知られている。もう一人は、前回、詳しくふれたハンス・ヨナスであり、未来への責任を説いた。

そして、もうひとり重要な哲学者に触れないわけにはいかない。もっともユダヤ人らしいユダヤ人であった哲学者エマニュエル・レヴィナスである。レヴィナスの哲学は他者の哲学といわれる。絶対的に架橋不能な対象としての他者とは、予測不可能な未来のことにほかならない。現在という瞬間を捉えることが自己を確立すると説いたレヴィナスにとって、未来は圧倒的な他者だ。その他者との関係にこそ倫理が問われるのだという。

未来に対する態度が倫理のひとつの表れと言い換えることができる。それは奇しくもハンス・ヨナスのいう未来への責任と同じ根があると思える。それがアウシュビッツの後に残されたユダヤ人哲学者に共通した体験がもたらしたものであるのかは、私にはわからない。いまもうひとつ言えるのは、現代のAIがすでに人類にとって架橋不能な他者になりつつあるということだ。架橋不能は制御不能とも言い換えられよう。ヒントンが恐れるのもそういうAIに違いない。

レヴィナスについては内田樹の一連の書籍が有名なのだが、私自身は熊野純彦の『レヴィナス入門』(ちくま新書)、『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』(岩波書店)で読んだのが始まりである。

レヴィナス入門 (ちくま新書 200)

レヴィナス入門
熊野 純彦 著
筑摩書房
ISBN:978-4-480-05800-3


レヴィナス――移ろいゆくものへの視線 (岩波現代文庫)

レヴィナス 移ろいゆくものへの視線
熊野純彦 著
岩波人文書セレクション
ISBN9784000285551


未来はそれほど未来でもなかった

科学の分野において未来への責任として言われるのは、放射性物質の半減期でありゲノム編集であり環境汚染であった。それは数世代先を危惧する問題である。

ところが、AIテクノロジーの倫理的な責任を人類が問われるのはそれほど未来のことではないのかもしれない。冒頭のヒントンのGoogle退職が示すように、長足の進化をとげたAIであるならば、私の生きているうちにさえなんらかのカタストロフィが訪れるのではないかと思ってしまう。

直近で取り沙汰されているような生成AIの偽造技術の制御についてはこれまでにも人類に経験がある。だからあまり脅威とは思えない。人類は通貨が生まれたそのときから、その偽造と技術的な競争を続けてきたし、ある程度の制御も実現している。それを思えば、AIの生成画像などまだ恐れるに足らない。私が怖いのは、私たち人類が本来のあり方を隠蔽されて、気付かぬままにAIに用立てられるようになることである。

それこそ、本当の意味での人類のカタストロフィではないか。人類が自らの制御が及ばないテクノロジーで最初のカタストロフィをもたらした地、広島でG7の首脳たちは果たしてどのような未来を見、どのような態度をとることにしたのだろうか。

ヒロシマ、アウシュビッツこそ、制御なきテクノロジーの象徴なのである。

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