フレームを壊し、ルールをアップデートする
東京大学大学院総合文化研究科教授 池上 高志氏に聞く(3)
桐原永叔(IT批評編集長)

最終回では、生命の進化について話を聞いた。人間が進化するのか、それとも人間が進化を阻むのか。認識論と価値観のパラダイムシフトが、いかに起こり得るのかを構想する、刺戟に満ちた論考が続く。

池上 高志(いけがみ たかし)
東京大学大学院総合文化研究科教授。1961年、長野県生まれ。複雑系・人工生命研究。東京大学大学院理学系研究者博士課程終了。理学博士(物理学)。人工生命(ALife)を軸に、ダイナミクスからみた生命理論の構築を目指す。またサイエンスとアートを架橋する作品制作やパフォーマンスも多く手掛ける。著書に『複雑系の進化的シナリオ―生命の発展様式』(朝倉書店 金子邦彦との共著)、『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』(青土社)、『生命のサンドウィッチ理論』(講談社)、『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』(講談社 石黒浩との共著)など。
目次
科学の役割は新しい認識論をつくること
都築 正明(以下、――)生命について考えることは、かつて神学が追求してきたものを考えなおしているようにも思えます。“ブルックスのジュース1”が生気論に近く思えたりですとか。
池上高志氏(以下、池上)科学として生命を考えることは、生気論と言ってすませるだけでなく、それがなにかを考えるということです。物体が原子と分子でできているというのは20世紀最大の発見ではあったけれど、それが「生命とはなにか」という問いの答えにはなっていない。そのうえにあるレイヤーが何なのかを考えています。宗教は個人的なものであればいい、と思いますが、科学というのは個人的なものにはとどまれず、客観性を要します。そこに宗教とは大きな差があると思います。
哲学を引き合いに出すと、動きから生命性が生まれるという考え方は、ジル・ドゥルーズ2の生成変化の概念と似ているように思います。
池上 河本英夫先生3をはじめ、同じことを言われることがあります。私自身はドゥルーズを読んでいないのですが、どんな概念なのでしょう。
ドゥルーズは自己複製において完璧なコピーではなく、そこにずれが生じることを指摘しつつ、その差異に注目します。そして別の何かに「成る」という生のダイナミズムを“生成変化”という概念で示しています。またフェリックス・ガタリ4との共著では、別の何かに「成る」ことを欲望する主体を有機的な身体ではない“器官なき身体”と名付けて外在するもののように書いています。
池上 たしかに、それは私の考える、欲望はや行為のモチベーションは外からやってくる、心も外からコピーされてくる、というOffloaded Mind(オフロードされる心)と似ているのかもしれません。僭越ですが。みんなが似ていると言う理由がわかりました。
先生の“スピノザ的なロボット”や“行動の束”という表現からも、西洋哲学の推移に重なるものを感じます。心身並行論をとるスピノザ5に代表される大陸合理論と、生得観念を否定して自己を“知覚の束”と称したヒューム6のイギリス経験論を、カントが超越的経験論として統合したことなども、先生の生命についての考え方に近いように思います。
池上 私のいう“行動の束”は、ジェームズ・ギブソン7のいう“アフォーダンス”に近いです。たとえばコップをつかむときに、コップが行動をアフォードしていると言うことができます。
コップはつかむことを示唆(afford)しているけれども指示(signify)はしない、というように複数の行動のバリエーションがありえることですね。
池上 いまショーン・ギャラガー8という哲学者と論文を書いています。彼も説明することや概念をつくることを重視しています。一方で科学は哲学とは違い、次のものをつくることができます。私は説明することにはよりも未来をつくることのほうが絶対に面白いと思っています。昔から、科学の役割は事象を説明するのではなく、新しい認識論をつくることだと思っています。それができなければ、説明できても仕方がない。