脳の可塑性と自然の可塑性、または落語に救われた話

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

制度化された知覚はAIに意識をもたらすか

この時から1週間、私は尿意を覚えるたびに、精密に繊細に生まれた家の厠を脳の裡に再現することで難敵を切り抜けた。まあ、実際のところ、数回で慣れてしまって、どんとこいというような心持ちになり、そうなると意にも介さなくなり、看護師がカーテンを閉め終わらぬうちに出てくるという上達ぶりであった。「すぐ返すから、看護師さん、そこで待ってて」ってなもんである。ひどい話だ。

脳内に再現される古い記憶への没入。そのコツは触覚や嗅覚、聴覚といった視覚以外の知覚に訴えるディティールを思い出すことにある。「プルースト効果」なんていう特定の匂いが記憶を蘇らせる作用を指す用語もある。これは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』全13巻(鈴木道彦訳/集英社文庫ヘリテージ)という長い物語の導入で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した香りで幼少時代を思い出す部分に由来している。(ついに禁を破った。読んでない本は紹介しないという禁だ。さすがにこれは読んじゃいない)

「神々は細部に宿る」という。

私たちの生活世界における記憶や感情を刺激するのは、意識に上らない程度の細部なのだ。かつて世界的映画監督の黒澤明が『赤ひげ』(東宝)を撮影した際、舞台となる小石川養生所のセットには、撮影では決して映ることのない棚の内部にまで時代考証に適った薬瓶が詰まっていたという。こうしたディティールが俳優の知覚を刺激して、演技にリアリティをもたらすと言われた。

もちろん、自然科学的な知覚でいえばそんなことはありえない事象だ。少なくとも数学の言葉で語れる事象ではない。唯物的にはまったくそうだ。

現象学をうちたてたエトムント・フッサールは次のように指摘したと、科学哲学の第一人者である野家啓一は『科学の解釈学』(講談社学芸文庫)に書いている。

「理念の衣、数学的シンボルの衣による生活世界の隠蔽」という事態

『科学の解釈学』(講談社学芸文庫)

近代化とはつまり西ヨーロッパでうちたてられた科学革命による知覚、認識の〈制度化〉のことである。私たちは自然を発見するのではなく、新しい制度の型でくり抜いて自然を“発明”しているのだ。そういう点では自然は可塑的であると野家はいう。自然は客観的絶対にして存在するのではなく、観察する私たちの〈制度化〉された知覚、認識を通じて“つくり直される”からだ。

フロイトがつくりだした精神医学によって私たちは心理という認識を得た。今では中学生でさえ心理を語る。知覚、認識の〈制度化〉とは、ただ気持ちとしてとらえていた動きを心理として説明しうるものにする。不調ともなれば薬を処方してその改変を試みることさえする。フロイトが人間のうちに心理を発見ではなく、“発明”しなければ現代人にこういう認識はない。

であるなら、フッサールが求めたように生活世界における主観的な経験(知覚、認識、直感など)と、科学者たちが共有するパラダイムという枠組みでの理論を分離しなけなければならない。それは客観的な事実などでなく間主観的な事象にすぎないからだ。

一見、宗教的で神秘的な黒澤の手法がどこまで真実であるかは問えないが、一方で芸術を数学の言葉で語ることは意味をなさない。客観的な事実、真実というのはただの制度だからだ。私たちの生活世界における知覚や感情は未だ数学化されていない。それともいずれは脳内の活動として分泌液の量などで測ることが可能になるのだろうか?

ディティールが豊富なビッグデータなら、AIに生活世界における主観的な経験をもたらすことができるだろうか。すなわち心や自己意識をつくりだすことはできるだろうか。

失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へ 1

マルセル・プルースト 著

鈴木 道彦 訳

集英社文庫

ISBN:4-08-761020-9

赤ひげ【名作セレクション】

監督:黒澤明

鈴木 道彦 訳

東宝DVD名作セレクション

科学の解釈学

野家 啓一 著

講談社学術文庫

ISBN:978-4-06-292210-4

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