わかりにくさの罪、わかりやすさの罰
XAIが目指す帰納的飛躍の解消

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

ブラックボックスでしかない頭と心

数学界では、天才の扱いはさらに難しいものになる。経済学者の宇沢弘文は愛娘の進路について「数学者を目指すと孤独になる」と述べたという。自身も数学者を目指した宇沢ゆえに深いひと言だ。

天才数学者の振る舞いは常人をしてまったく理解を受け付けないものがある。私たちは彼の天才を理解できないまでも、彼の人柄を理解しようとしてさらに大きく誤解し、ますます彼を孤独にする。私たちの器に押し込めることでしか天才をわかりやすくすることができない。そしてそこには実像はない。

こうした事例の最新のものは、ロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンだろう。ペレルマンはミレニアム懸賞問題の一つであったポアンカレ予想を解決した。ミレニアム懸賞問題とはアメリカのクレイ数学研究所によって西暦2000年に設定された7つの難問であり、その解決にはクレイ賞として100万ドルの懸賞金がかけられた。

あろうことか、ペレルマンはポアンカレ予想の解決をウエブサイトにひっそりと公開し、わずかな数学者にだけそのことをメールで知らせた。彼にとって重要なのは、数学の難問の解決であり、世間から注目されることも金銭を得ることも二の次であった。しかし、ポアンカレ予想の解決はペレルマンを圧倒的に孤独にしてしまったのだ。

同じ志を持ち数学のみを信奉していると見ていた先行する研究者たちはペレルマンの方法に疑問を呈するか、無視するかした。ただ認めることさえしなかった。業績を正しく報道すべきマスコミは、ポアンカレ予想の解決によってペレルマンが100万ドルを手にすることを強調する。

ペレルマンは、数学のノーベル賞といわれる4年に1度のフィールズ賞を辞退し、今世紀中にあと1度でもあるかわからないクレイ賞をも辞退する。ただ認めてほしいだけなのに、それらの賞を受領してしまえば、名誉を欲していると誤解されることを恐れているかのように。懸賞金を受け取れば、金銭のためにポアンカレ予想に挑んだと思われることを恨むように。

こうしてペレルマンは世間から姿を消した。

人は二つの点で、ペレルマンを理解できない。これまで多くの天才が挑み阻まれてきたポアンカレ予想をたった一人で解決した世紀の天才としての彼と、歴史に名を刻むほどの名誉と一生を賄える賞金を受け取る正規の権利をもちながらそれを拒否した狂人としての彼と、を。

ペレルマンの頭のなかも、心のうちも私たちにはブラックボックスなのだ。ペレルマンについてはNHKに優れたドキュメンタリーがあるので観ることを勧めるが、『完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』 (マーシャ・ガッセン著/青木薫訳/文春文庫)はソビエト連邦当時における数学教育、そこで頭角を現しながらもユダヤ人であるゆえに不遇をかこった少年少女たちの環境を知ることができ興味深い。なにより、著者自身がペレルマンと似た境遇にあったことが迫真性をもっている。

完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者

マーシャ・ガッセン 著

青木薫 訳

文春文庫

ISBN:978-4-16-765181-7

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