量子コンピュータをめぐるプラトン主義
アインシュタインとボーア、ペンローズとホーキングの思想対立

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

歴史は「神」のものではない

ファイヤアーベントのプラトン批判の元祖は、ファイヤアーベントの師匠である哲学者、カール・ポパーである。その著作『開かれた社会とその敵 第1部: プラトンの呪文』(内田詔夫、小河原誠訳/未来社)で、そのままタイトルにあるようにプラトン主義を批判した。この第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に書かれた大著によって、ポパーはプラトン的な純粋性つまり統一されたイデアという世界観は、プラトンの政治哲学を通じて全体主義の温床になっていると断罪する。世界に唯一の真実という呪いは、私たち人間を容易に奴隷にしてしまうのだ。

ポパーは『歴史主義の貧困』(岩坂彰訳/日経BPクラシックスシリーズ)でも、歴史に法則がありそれが発展していくという考え方を貧困なもので、論理的に成立し得ないと徹底して批判する。歴史の法則とは、このレビューでも取り上げたヘーゲルの歴史哲学のような進化発展する歴史観、それを元にしたマルクスの唯物史観などが代表例であろう。

歴史の法則は、いずれ世界は進化の果てに唯一の理念(イデア)に到達するというものだ。ポパーはこれを受け付けない。科学的な方法によってあたかも絶対的な真実があるかのように人間社会を論じることへの強烈な違和感がもとになっている。

有名な「反証可能性」という方法を持って、反証し得ないものは科学理論とは言えないと論じたポパーは、絶対ではなく相対としての歴史を、私たちの世界を、論じる。

今では批判も多いものだが、ポパーの考え方は知性というものを捉える道具として非常に有用なものだと考えている。

開かれた社会とその敵 第1部: プラトンの呪文

カール ポパー (著)

内田 詔夫 (翻訳), 小河原 誠 (翻訳)

未来社

ISBN:978-4-624-01052-2

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歴史主義の貧困

カール・ポパー ( (著)

岩坂 彰 (翻訳), 黒田 東彦 (解説)

日経BP社

ISBN:9784822249663

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知的な対立がもたらす多様な可能性

過去の歴史も、未来における発見に影響される。

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』(デヴィッド・エドモンズ、ジョン・エーディナウ著/二木麻里訳/ちくま学芸文庫)

こんなポパーの名言をエピグラフに置いているのは『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』(デヴィッド・エドモンズ、ジョン・エーディナウ著/二木麻里訳/ちくま学芸文庫)である。タイトルの通り、ポパーと天才(奇才というべきか?)言語学者であるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論争を素材に、二人の評伝を絡めながら、この時代の哲学の潮流を物語るノンフィクションである。

原題は「ウィトゲンシュタインの火かき棒」とある。物語は1946年ケンブリッジ大学のあるセミナールームで起きた二人の論争に端を発する。このとき、激昂したウィトゲンシュタインは暖炉にあった火かき棒を掴んでポパーに食ってかかった。そこはさるものポパーも怯むことなく「私を火かき棒で脅すな」と怒鳴り、ウィトゲンシュタインを退出させた。

どのような論点で議論となったのかは諸説あり、真相は推測するよりないのだが、激烈なポパーが反証不可能な言語哲学を提唱するウィトゲンシュタインを論難したことは想像に難くなく、ひときわ感情的で孤独を募らせていたウィトゲンシュタインが激昂したこともおそらく真実だろう。

この二人の10分間の論争の思想的な本質がいったいどこにあるのかは未だもってわからないのだが、天才同士の衝突は私たちに大きな示唆を与えるし、理論を相対化して眺め直すのにはもってこいかもしれない。

冒頭のアインシュタインとボーアの間の論争も、互いの主張のやり取りのなかに新しい物理学の本質を体感的に掴みうる。ことに物語として、互いの生い立ちを追った上で人物を理解して、論争を見直すこと、対立を思うことは何らかの知的な活動の助けになる。これこそ、ファイヤアーベントが古代ギリシャにおいて演劇が持っていた機能を指すものだろう。つまり人間の情動を、その対決を通して表現することこそ世界の記述の意味をなすものではないかということだ。

しかし、この知的な対立という考え方そのものはヘーゲルの弁証法のテーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼのように発展を望まれているようであるが、私自身は知的な対立は事物に対する解釈の多様性の素地として価値があると考えており、それ自体に発展を期待するわけではない。

かつて「朝まで生テレビ」のような討論番組を非難して、「反対だけで代案も結論もないからよくない」という人がいたが、討論に求められるべきは代案や結論ではない。議論の多様な可能性を開いていくことであるべきだ。

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎

デヴィッド・エドモンズ, ジョン・エーディナウ (著)

二木 麻里 (翻訳)

ちくま学芸文庫

ISBN:978-4-480-09759-0

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AIが意識をもつとき、合理性が人を支配する

量子力学に戻ろう。量子コンピュータはアニーリングという方式によって既に実用の域に達している。もちろん仮想的な量子世界の応用であるアニーリングよりも、より本質的に量子状態を電子計算にとりこむゲート式での実用には至ってはいないのだが。

今では、解釈と確率的な世界観である量子論は広く受け入れられ(しかし、理解されているとは言えない)、量子アルゴリズムが開発されコンピュータへと応用されようとしている。

波でもあり物質でもある性質が、0と1で世界を記述する古典コンピュータから0と1を重ね合わせ、莫大な同時進行状態をもたらして複雑で大量の計算を成し遂げてしまう量子コンピュータは世の中を一気に変えてしまうテクノロジーだ。だからこそ、岸田内閣も国を挙げて取り組もうとしているわけだ。

私は個人的には、量子的な方法によってAIが自己意識に近いものを持ちうる可能性について非常に興味を持っている。この辺りについては、Googleの元副社長である村上憲郎氏の『クオンタム思考 テクノロジーとビジネスの未来に先回りする新しい思考法』(日経BP)で、量子力学で「自己意識」は定義できるのかが論じられている。

このレビューでも何度か、AIが意識を持つこと、意識というものの定義をめぐってさまざまな考えを紹介してきたが、量子論と意識がつながっていくとすれば非常に面白く、またペンローズの量子脳の考え、その根底にあるイデア論との関係も見極めていきたい。なぜなら、意識を持つ人工的な知性が誕生した場合、それはファイヤアーベントやポパーが危惧したように人間を科学的合理性の奴隷にするものになるかもしれないからだ。

そういう時代はもしかすると私が生きているうちにやってくるのかもしれない。

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