テクノロジーを手に未来の社会・文化をデザインする
──アーティスト・慶應義塾大学准教授・長谷川愛氏に聞く(3)
SF作品はテクノロジーによるディストピアを多く描いてきた。そこに近接した生活世界を生きている私たちのなかでも、生きづらさをの矛先は立場の弱い人々や若年世代に向かう。長谷川氏はプロジェクト「技術死生学」において死を再定義するとともに、来るべき倫理や社会・文化のありようを共に考えることを後続世代に呼びかける。
2023年7月6日 オンライン取材
長谷川 愛(はせがわ あい)
アーティスト、デザイナー。バイオアートやスペキュラティヴ・デザイン等の手法によって、生物学的課題や科学技術の進歩をモチーフに、現代社会に潜む諸問題を掘り出す作品を発表している。岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(通称 IAMAS)にてメディアアートとアニメーションを学んだ後ロンドンへ。2012年英国Royal College of Art, Design Interactions にてMA修士取得。2014年から2016年秋までMIT Media Lab,Design Fiction Groupにて研究員、2016年MS修士取得。2017年4月から2020年3月まで東京大学特任研究員。2019年から早稲田大学非常勤講師。2020年から自治医科大学と京都工芸繊維大学にて特任研究員。2022年から慶應義塾大学理工学部准教授。「(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合」が第19回文化庁メディア芸術祭アート部門にて優秀賞受賞。森美術館、寺田倉庫、MoMA、アルスエレクトロニカなど国内外で展示多数。著書に『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業』(ビー・エヌ・エヌ新社)。
目次
過去を語るストーリーを反転させて未来を洞察する
──近年の「技術死生学」プロジェクトでは、能や民俗学からのアプローチを通じて、改めて死生観に向き合っていらっしゃいますね。
長谷川 SF作品には、意識や脳をコンピュータにアップロードして生き続ける精神転送のネタはよく出てきます。現在はテクノロジーによって、生と死というものが、以前のように明確に区切られるのではなく、グラデーションとして繋がってきている。これからは、完璧に死んでいる/完璧に生きているのではなくて、部分的に生きているような認識になっていくんだろうと考えました。そこでSFにおいて生と死のテクノロジー、とくに死に関するテクノロジーにどんなバリエーションがあって、そのうちどれが現実化しつつあるのかを調べました。そこから生と死が技術によってどのように揺らいでくるのかを探りたいと思いました。そのために、日本の旧来の死生観がどのようなもので、現在の私たちの死生観にどう繋がっているのかを考えました。
──死生観が構築されてきたプロセスを知り、そこから死についてのテクノロジーを接続するという考え方ですね。
長谷川 日本の死生観を知る手がかりを探していたところ、能がヒントになることを示唆してくれた方がいました。能には、宗教にとどまらない日本のさまざまなお話が集められていますし、室町時代から数えても600年以上の歴史があります。また往々にして話中に死者や人間でないものが登場します。前半に会った人が、じつは人間ではなかったというネタばらしを後半でする構成が多くて、人だと思っていたものがじつは鬼婆だったり幽霊だったり、神だったり梅の精だったりする。そこに仏教や道教、神道や土着信仰の考え方が混淆しています。転生の話をしていた直後に中国の反魂香の話をしていたり、仏教だと死後は他の世界へ転生している霊なのになぜかお盆には山から帰ってきたりする矛盾をふくむ話が普通に存在している。それらを私たちは受け入れていることが再確認できてなかなか面白いんです。2021年に発表した「技術死生学:思索能試作(Techno-thanatology : Speculative Noh Pilot Play )」では、過去の死生観を語る能のファンタジーを、未来の死を語るSFとして再定義するビデオインスタレーションとして作品化しました。
技術死生学:思索能試作(Techno-thanatology : Speculative Noh Pilot Play)(2021,長谷川愛氏公式サイトより)
──一方、岩手県遠野市の習俗をアップデートした作品も制作されています。
長谷川 日本の世界観の中にある死生観を補助線として、どのように死というものを扱えるのかを考えました。死を扱う1つの例として、遠野では生前に暮らしていた部屋を豪華にアップデートして、その中で死者が楽しく暮らしている姿を絵師さんに描いてもらい、それをお寺に奉納する「供養絵額」という風習があったことを知りました。
──死後の幸福を、ある程度具体的にイメージすることで遺された方々の感情を恢復する。
長谷川 現在の技術を使えば、ディープフェイクとしてこれを動画で作れてしまう。そこで動画でインタラクティブな機能のある供養絵額をつくるサービスがあると仮定して、お互いの実写動画版の供養絵額を試作するワークショップ「供養絵額2.0(Memorial Picture Frame2.0)」を行いました。
──亡くなった親族や友人の生前の動画を観たときのことを思い出すと、正直なところ、観たいような観たくないような……。
長谷川 Amazon プライムに「アップロード」というSFドラマシリーズがあります。そのドラマでは、企業が天国をデザインします。サブスクリプション方式で、お金持ちはいい部屋に、お金のない人はデータ通信量が低い部屋にというように、天国ですら資本主義の原理に支配される。観ていると「うわ、しんどい」と思いますが、あり得ない未来ではないと思います。平野啓一郎さんは、自分の母親をデータとして蘇らせるとどうなるかを『本心』という小説で書いていますが、テクノロジーを用いて死者をより具体的に再現することも可能です。「供養絵額2.0」は、こうしたことが行われるまでに、なにを考えるかをリサーチするプロジェクトとして進めました。
──フロイトは近しい人を失った喪失感を受け入れて恢復するプロセスを「喪の仕事」と位置づけましたが、バーチャルであれ来世をともに生きられれば喪失感そのものを緩和できるかもしれません。
長谷川 そうですね。脳アップロードのようなテクノロジーの実現はまだ遠い先のことだと思いますが、リアリティのある死者を再現することは現行の技術で可能です。特にChatGPTで不自由なく会話ができるのは、それに近い状況だと思います。自由意志がないという想定のもと、身体を通じた偶然性を帯びたアウトプットこそがリアルな人物との対話だと思う人には効かないですけれど。
テクノロジーにおけるポリティカル・コレクトネスと倫理
──ChatGPTは、真面目すぎて会話に疲れることがあります。なにかの文脈で「死にたい」と打ち込むと「その話はしたくありません」と拒絶される。「どうして?」と重ねて質問すると、WHOのガイドラインのようなものを列挙して、お説教をされてしまいます。
長谷川 逆にいうと、どのような言葉で表現すれば炎上しないかというガイドとしては、とても役立ちますよね。私の場合は大学の准教授という立場上、そういったことに過敏にならざるを得ないこともありますから。いま慶應義塾大学の機械科で教えているのですが、映画を鑑賞させるにあたってもセクハラにあたらないかとビクビクしていますよ。「ブレードランナー」のラブシーンでも「レイチェルは未成年ではないのか? レプリカントならOKなのか?」ということが気になったりしますし、「時計じかけのオレンジ」の暴行シーンは上映して大丈夫だろうか? と不安になったりもします。
──そうした作品は、アートやデザインの授業で鑑賞しているのでしょうか。
長谷川 これは授業外でやっていることなんですが、彼らが「攻殻機動隊」を知らないことに衝撃を受けて、とりいそぎSFの名作映画を見せなければならないと思いました。先日は改めて「2001年宇宙の旅」を観たのですが「HAL9000」とChatGPTを比較できたり、人類の進化について改めて議論ができたりして楽しかったです。
──映像作品のレーティングが細分化される一方、昨年はtwitter社でAIの倫理や透明性について研究していたチームが解雇されたほか、Google社では自然言語処理の倫理的リスクについて論文に著した研究者が解雇されたり、ジェフリー・ヒントンがAIの未来について懸念を表明するために退社したりという動きが目立ちました。
長谷川 そうしたバックラッシュがこれからさらに起こるであろうことが、とても心配です。
──現在は、どういったことに関心を持たれていますか。
長谷川 自由意思について関心があります。それはテクノロジーにどこまで委ねられるのだろうという積極的な意味においてです。ChatGPTの例でいうと、正しいことを生成してくれて失言を防げるのであれば、私としては嬉しいわけです。同様に、生きることに切実な困難を持つ人にとって、いまよりも役に立つ使い方があるはずです。社会的な困難さに対峙することを自動化できれば、生きづらさを抱えている人を、もっと楽にしてあげることができます。そこで緩和されたその人の能力を、よりよい方向に使うことができるのではないかと思います。
──たとえば、就職活動のエントリーシートをAIで生成することについては否定的な声が多く挙がっています。しかし、自己分析や自己PRを器用に“盛る”ことが得意でないのなら、使ってしまったほうがよいわけですよね。
長谷川 私自身は特に勉強ができたわけでもありませんし、少し“コミュ障”気味なのにアートでキャリアを積んでこられたので、運がよかったとしか思えないんです。だからこそ、運が悪かった場合の自分や、実際にそういう状態にある人のことも想像できます。そこでテクノロジーが助けてくれたり力になってくれたりすることは、たくさんあるだろうと思います。
スペキュラティブ・デザインとは、未来を考える態度のこと
──いまご覧になっているコンテンツや、そこで考えられていることはありますか。
長谷川 いま海外のSFドラマシリーズが興味深いです。先述したAmazonプライムの「パワー」は、女性に放電する能力が世界各地で同時多発的に発現して男女のパワーバランスが変わっていくという作品で、現代の社会像について考えさせられます。一方「ザ・ボーイズ」という作品では、アメリカのスーパーヒーローたちが社会を牛耳って腐敗した世界を舞台にしていて、男性性の呪縛や現代のアメリカ社会を描いています。またウィリアム・ギブスン原作の「ペリフェラル 接続された未来」という作品は、VRゲームをプレイしていたら70年後の未来と接続していて、さらに量子トンネル効果で現代に影響を及ぼすというストーリーで興味深い。最近は4年ぶりに「ブラック・ミラー」の新シーズンがNetflixで配信されていて、第1話は主人公がスマートフォンの行動履歴からシミュレートされた自分の人生についてのドラマが配信されているのを自分で観てしまうという風刺的なストーリで、ダークながらも非常に面白かったです。
──最近では映画「TAR/ター」について言及されていました。
長谷川 震えました。音楽から逃れられない主人公の女性指揮者の姿にはアーティストとして身につまされましたし、なにより准教授として教え子を持つ立場なので、主人公が黒人男性の生徒を論破するシーンには怯えました。さまざまな失敗を繰り返して、目立つポジションに就くと過去のことを蒸し返されてキャンセルカルチャーの遡上に挙げられる。おそらく私も今後更新されていく倫理観においていつも正しい発言や行為をしていないことがあるでしょうから、他人事ではないと思います。倫理というものも時代や状況に応じて変わっていくものですし。
──映画では主人公が幾重にも呪われた生にいることが明かされますし、周囲が女性であることを本質化してしまうことも描かれていました。
長谷川 企業などの組織で、困難な状況において女性やマイノリティがリーダーに登用されることが多いことを評した「ガラスの崖」という言葉があります。これまでの失敗が積み重なった危機的な状況では、責任を追求される立場に女性やマイノリティを登用する。キャリアアップを阻んできた「ガラスの天井」を突き破って雇用されると、いきなり崖っぷちに立たされるわけです。私も「アートとデザインで社会状況を変えてください」というようにお題だけを与えられる状況に置かれることがあります。いままで下駄を履いた人たちが散々チャレンジして変えられなかったことを、いきなり私ひとりで変えろっていうんですか──と抗議したくなるのですが、後から「やっぱり女には変えられなかったな」と言われるだろうと思うと、すごく悔しいです。
──成功しても嫉妬されてキャンセルカルチャーが発動することも想定されますよね。GDPRの「忘れられる権利」で黒歴史のデータを削除しても、おそらくどこかにログが拡散されている。
長谷川 難しいですね。過去のことはいくらでも遡ることはできますし、X(旧twitter)の炎上の多くは文脈を無視したリツイートによるものです。個人的には似たような心情を抱くこともありますし。COVID19の自粛期間中に「コロナが収束したら生活に困窮した女性がセックスワークに就くから、それを楽しみにいまは耐えましょう」という内容の発言をしたコメディアンがいましたが、彼がテレビに映っていると許せない気持ちになります。
──2021年に拝見した寺田倉庫で行われた「4th Annunciation」では、若い世代への前向きなメッセージを感じました。富士山噴火茶席のほか、大地震や疫病のもとで幕府への不信感がつのり明治維新が起こったことを想起したりもしました。
長谷川 テクノロジーもアートも、オルタナティブな世界を構想したり、いまはまだないものを想像したりすることからはじまります。価値観や倫理も、いまあるものがすべてではないことを提示しつつ、いっしょに社会を変えていくことを呼びかけたいです。これまでとは違うビジョンを描いて、そこにテクノロジーを載せていこうよ、と。未来をいっしょに考えていけると嬉しいですね。<了>