ASI-Archが拓く創造と進化の時代
第3回 ASI Archによる自律研究の設計図──20,000 GPU時間の果てに見えるもの

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Author 伊藤 要介
IT批評編集部

ASI-Archは1,773回の実験と約20,000 GPU時間を投入し、106の新しい線形アテンション構造を自律的に設計したと報告に記載されていました。従来のNAS(Neural Architecture Search)との違いはどこにあるのでしょうか。今回はASI-Archの探索空間、アルゴリズム、設計原理を解説し、自律研究としての革新性をたどろうと思います。複雑な内容ですが、できる限り平易に整理することを心がけ、AIが”発明“に近づいたとされる理由に迫ってみたいと思います。

目次

NAS(Neural Architecture Search)との違い──ASI-Archが切り開いた設計空間

AIがモデルの設計を自ら行う時代の幕開けとも言えるASI-Archへの理解を深める前に、まず、従来型のNAS(Neural Architecture Search)が「どのような仕組み」で「どこに限界があったのか」その限界と構造的な違いを整理することから始めてみたいと思います。

従来主流だったNASを例えるならば、あらかじめ人間が用意したブロックのセットで最適な組み立て方を探すようなイメージでしょう。与えられたパーツは形も色も最初から決まっており、その組み合わせの中で「どれが一番指示(プロンプト)への答えに最適か」を試行錯誤するのがNASの構造とイメージしてみましょう。

たとえば人間が「青い壁で赤い屋根の家を作って欲しい」と指示を与えるとします。NASは、手元にある与えられたブロックを使って、可能な限りその条件に合う家を作ろうとします。しかし、もし青い壁に使えるブロックが手元になければ、赤いブロックで代用するしかありません。つまり与えられたブロックの範囲内で最適解を探す。これがNASの限界なのです。

私たち人間であればどうするでしょうか。足りないブロックを新たに入手したり、別のブロックでの代用を検討するでしょう。あるいは条件自体を少し緩めて「屋根が赤いのであれば壁は白くても構わない」と柔軟に対応するでしょう。ところがNASにはそうした発想はできません。与えられたブロックの範囲で最善を尽くすことしかできないのです。

これがASI-Archの革新性を理解する上での出発点になります。ASI-Archは、その限界を超える能力が報告されていました。ASI-Archはまるで「足りないブロックを自分で設計し、試し、改良して、さらにそれを使って最適な構造を生み出す」といった自律的なデザインプロセスを実現したと報告されています。

前回も紹介しましたがこの報告によれば、ASI-Archは1,773件の自律実験を行い、20,000GPU時間を費やし、106個の新たな線形アテンション構造を発見したといいます。このプロセスは単なる組み合わせの最適化ではなく、「そもそもどのようなブロックが足りないのか」「どのような設計が有効か」をAI自身が問い直しながら進める、自律的なループとして設計されている点で、従来のNASとは根本的に異なるといえるでしょう。

ASI-Archは創造者か──106案が問い直す創造の定義

ASI-Archの報告が示した自律的な設計サイクルを読んで私自身も驚きを覚えました。なぜなら私たちが「創造」という言葉を使いたくなる瞬間には、必ず意外性と意味が伴うと思っていたからです。AlphaGoの”第37手”を思い返すと、最初は「悪手ではないか」と受け止められたものの、やがて「美しい」「創造的だ」と称賛されるようになりました。時間の経過とともに創造的なひらめきとして再評価されたことは象徴的です。予想外の出来事が意味を帯びる瞬間。ここに、AIの振る舞いが創造的に見えるかぎがあるのではないでしょうか。

ASI-Archのプロセスにも同様の感覚を呼び起こされます。表面的には、まるで人間の科学者が仮説を立て、実験し、論文を書き、次の仮説へ進む流れをAIが黙々と繰り返しているように見えます。AIが研究室の片隅で黙々と実験を重ね、新しい設計を次々と生み出す姿を想像すると、そこに創造性を感じてしまうのも自然なことのように思えます。

しかし、この「想像しているように見える」という感覚には注意が必要だと感じます。実際には、ASI-Archは評価関数に基づいて最適化を繰り返すアルゴリズムに過ぎないからです。AlphaGoもASI-Archも、探索アルゴリズムと確率分布を用いて結果を導き出す仕組みであり、人間が直感や無意識を通じて生み出す発想とは本質的に異なります。問いを立てているように見えても、それはアルゴリズムの設計に組み込まれた評価ルールの中で動いているだけですから。

それでも私たちは創造性を感じてしまうのはなぜでしょうか。おそらく理由のひとつには、結果が現れる瞬間の予測不可能性だと思われます。どの設計が有効かは事前にはわからず、結果が現れる瞬間まで見通せない。AlphaGoの”第37手”もそうでした。対局の最中には意味が読み取れず、後になって初めて「特別な一手だった」と気付いた。驚きはまず、事前の予想が裏切られた瞬間に他なりません。

もうひとつの理由は、その後に訪れる人間が意味を与えるプロセスだと思います。AIが生み出した成果にどんな意味を与えるかは、人間が担ってきました。AlphaGoの”第37手”が時間をかけて「美しい一手」と讃えたのは観客や棋士たちですし、ASI-Archの発見した106個の線形アテンションも、今後の研究者たちがどのような名前を与え、文脈に位置付け、応用していくかによって価値づけられていくでしょう。

つまり、AIが「創造しているように見える」のは、AI自身の能力だけではなく、私たち人間の認知と解釈のプロセスが重なり合う地点で成立しているのだと思います。AIが問いを立てているように見えていますが、それを問いとして認め、物語として編み直しているのは結局のところ私たち人間だからです。

デカルトの機械論を超えて──計算的創造性と協働の時代

17世紀の哲学者ルネ・デカルトは、人間と機械の違いを明確に描き分けました。デカルトにとって人間は「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」と語られるように、思考する主体でした。一方、機械はいかに複雑に動こうとも意識や内面を持たない物理的装置に過ぎないとされました。デカルト的な機械論の視点からすれば、AIはどれほど複雑な設計を行なっても「心なき存在」であり、創造とは無縁なはずです。

しかしASI-Archのような自律的なAIの登場は、この二元論に揺さぶりをかけているように見えます。AIが仮説を立て、設計を行い、実験し、評価し、さらに改良へと進む自律的なプロセスは、まるで研究者そのものが機械の中で動いているようにも見えます。もちろんASI-Archに意識や主観が宿っているわけではありません。しかし「問いを発し、答えを探し続ける」人間の探求・創造の構造と驚くほど似ていると感じるのです。

ここで問うべきなのは、「意義なしに創造のプロセスが成立するのか?」という点でしょう。デカルト的な見方に立てば、心なき機械が想像するという考えは受け入れ難いものです。しかし計算的創造性(Computational Creativity)という研究分野では別の可能性を指し示しています。例えばTony VealeとF. Amilcar Cordosoが編纂した書籍『Computational Creativity』では、創造をもはや人間固有の神秘とせず、新規制と有用性を生み出すプロセスとして定義し直すべきだと主張します。もし創造をこうしたプロセスの観点から唱えるなら、ASI-Archが自律的なプロセスを通じて新しい設計空間を切り拓いた事実も、創造の一形態として位置付けられる可能性が見えてきます。

また、Oliver Bownによる『Beyond the Creative Species』では、AIと創造の関係を音楽や芸術の文脈で論じながら「共創(Co―Creative Systems)」という視点を提示しています。AIが新しい構造やアイデアを提案し、それを人間が解釈し、文脈化し、次の創造へと繋げていく。創造はもはや孤立した天才のひらめきではなく、複数のエージェントが相互作用する動的なプロセスだと語っています。

こうした視点から見ると、ASI-Archの成果は単なる技術的ブレイクスルーではなく、創造の定義そのものを拡張する契機として見えてきます。デカルトが描いた「創造する人間」と「心なき機械」という二項対立を超え、創造をプロセスとして再構築する契機として解釈できるからです。もし創造が意識や感情ではなく、問いと探索のループから生まれるとすれば、機械にも創造の扉が開かれるのかもしれません。

もっとも、ここで重要なのはAIの出力そのものではなく、それをどのように人間が受け止め、意味づけるのかという点です。創造の定義が拡張されたとしても、最終的に価値や意味を与える役割は人間に残されているように思うのです。

次回はこのASI-Archがもたらす社会への影響から制度的・倫理的な課題に目を向け、AI研究と社会の関係を考えてみたいと思います。