無知を問うアグノトロジー(無知学)とジェンダード・イノベーション
第3回 無知はいかにつくられるか
科学は真理を明らかにする営みであると同時に「何を知らないことにするか」を選び取る装置でもある。ロバート・N・プロクターが提唱する無知学(アグノトロジー)は、この“知られざる構築”を問い直す試みだ。タバコ産業の情報操作の分析から出発し、ナチスの健康政策や現代の科学技術政策にまで射程を広げたプロクターの研究は、知と無知、倫理と科学、そして政治と技術のあいだに潜む構造的共振を可視化する。
目次
プロクターの捉える無知学(アグノトロジー)の射程
前回記したように、ロバート・N・プロクターはタバコの発がん性から消費者の耳目を逸らすための策謀を暴くなかで、戦略的策謀、または積極的構成としての無知にフォーカスを当て、科学史家ロンダ・シービンガーとともに無知学というジャンルを拓いた。プロクターは鶴田想人・塚原東吾編著『無知学(アグノトロジー)への招待』(明石書店)所収の鶴田氏によるインタビューに、祖父母のうち3人を喫煙に起因するがんで亡くしたことをきっかけにタバコの発がん性に着目したと述べており、また「現代思想」2023年6月号所収のピーター・ギャリソンとの対談では学部2年生のときに在籍していたインディアナ大学では学生寮を禁煙にする運動に参加していたと述べていることから、いわゆる“嫌煙家”であったことが拝察されるが、研究の主軸は科学がときに意図的につくられるものであることを指摘し、倫理や道徳に接続することにある。
科学を単なる客観的知の体系ではなく、社会的・文化的実践として分析する社会構築的な学問姿勢については、1970年代よりSSK(Sociology of Scientific Knowledge:科学知識社会学)の立場において示されていた。デイヴィッド・ブルア『数学の社会学――知識と社会表象』(佐々木力・古川安訳/培風館)において主張した「ストロング・プログラム」においては、真理も誤謬も同じ社会学的説明枠で説明することが提唱されていた。この立場は、社会を重視しすぎる社会還元主義であり、非人間アクターを無視する人間中心主義であるとして、本連載13回「AIの倫理とその再配置を考える」でも紹介したブリュノ・ラトゥールやミシェル・カロンをはじめANT(Actor-network-theory:アクター・ネットワーク理論)の立場から強く批判されることとなる。また社会を静的なものと捉え、科学の権力や倫理を等閑視する姿勢はダナ・ハラウェイをはじめとするフェミニズムSTS(Science, technology and society:科学技術社会論)の立場からも指弾される。のちにブルアは「社会は説明原理というよりも、説明すべき現象そのものである」として社会を固定的な科学の外部要因として扱うことへの反省を示し『ウィトゲンシュタイン:知識の社会理論』(戸田山和久訳/勁草書房)では知識を社会的言語ゲームの一部として理解する意味論的立場をとっている。
プロクターもまた「ストロング・プログラム」のマニフェストを読んだ際には、科学者が社会的存在であるという自明なことを主張することに鼻白み、科学者共同体を特権化することで科学に介入して改善するという意図を完全に棄て去る立場としての独善性を感じたという。
共振する科学技術と政治イデオロギー
プロクターは、利己的な産業を指弾したり、人々の健康や幸福を手放しで称賛したりするわけではない。最初の著作『健康帝国ナチス』(宮崎尊訳/草思社)は、ナチス期のドイツが“健康”を国家の義務として制度化し、推進した経緯を描いている。ナチス・ドイツが個人の幸福ではなく民族の純粋性や国家の力を維持するためにがん研究や禁煙、食生活改善運動や有機農法などの公衆衛生政策を推進した。同書では、科学や医学、技術が人種衛生として結託することで、身体の管理と排除とを同時に推し進める“健康の政治”が展開されたことを示すとともに、近代社会の健康志向に潜む暴力的構造を照射する。本稿ではシービンガーが顕らかにしたヨーロッパ帝国による奴隷の健康管理について後述するが、これもナチスの例とは逆の意味で科学や医学が政治的意図のもとに用いられた例である。2025年の参議院選挙では、保守を名乗る国粋主義的な政党が食品のオーガニック志向をもとに得票数を伸ばしており、日本もその例外ではない。またプロクターは、太平洋戦争時に満州に研究機関として設置され、現地で人体実験や生物兵器の開発を行っていた関東軍防疫給水部(秘匿名称:七三一部隊)をナチスに並ぶ“大きな優生学”と併置している。余談ではあるが、筆者は小学校5年生のころ父親が読み置いていた光文社カッパ・ノベルス刊行の森村誠一『悪魔の飽食』シリーズを読み耽り、深刻な人間不信に陥ったことがある。
プロクターとはハーバード大学院での同窓だった科学史家ピーター・ギャリソンは著書『アインシュタインの時計 ポアンカレの地図――鋳造される時間―』(松浦俊輔訳/名古屋大学出版会)において、数学者かつ官僚として経度測定と地図作製を通じて時間を国家や帝国のネットワークに結びつけたポアンカレと、特許庁に勤務して電子技術に囲まれつつ装置の思考から理論物理を生み出した2人の科学者を描き、相対性理論の誕生について理論と制度に依拠したポアンカレと思索と装置に依拠したアインシュタインの結節点として社会的・技術的文脈のなかで再構成してみせた。
ギャリソンはドキュメンタリー映画も手掛けており、2008年に公開された“Secrecy”では、第二次世界大戦時のアメリカを起点に、科学と国家とが緊密に手を取り合って機密体制をつくりあげた歴史をたどっている。映画は、マンハッタン計画における情報統制や冷戦期のスパイ活動、諜報機関の情報網や9.11米国同時多発テロ以後に制定された愛国者法以降について、CIAやNSAの元職員、法学者らの証言を通して映し出す。そこで可視化されるのは、科学研究の多くが機密と結びついて発展して、科学が公共的知であるだけでなく国家的資産として囲い込まれる様子や、技術は真実を明らかにする手段であるとともに真実を不可視化する制度でもあり、技術が権力のインフラとして共進化したプロセス、また誰が情報を知り誰が知りえないかを決定することが近代国家の隠れた機能であることである。この作品では、タイトルにもある“Secrecy(秘密)”が、単なる情報の隠蔽ではなく、知の分配を制御する政治的・技術的制度であることが描き出されている。
2015年に同じくギャリソンが制作した映画“Containment”では、アメリカ・ニューメキシコ州のWIPP(Waste Isolation Pilot Plant:核廃棄物処理施設)を起点に、1万年から10万年後までつづく放射性廃棄物の危険さを、1万年後の未来へどう伝えるかという不可能な課題を描いている。映像では、アメリカ、韓国、日本などの核関連施設を取材し、科学者や技術者、政策担当者の証言や実際の会議風景を撮影しつつ、言語も文化も異なる未来の存在に向けて警告を発することが、技術的・倫理的・時間的に破綻していることを描き出す。タイトルの“Containment(封じ込め)”は、放射性物質を隔離し漏洩を防ぐ技術的管理、国家が危険・情報・責任をコントロールする制度的管理、忘却や想像不可能性をまぬがれない人間の記憶の管理のことであり、そのいずれもがあらかじめ失敗していることを示していると同時に、科学技術文明が抱える自己矛盾のメタファーである。
ギャリソンはプロクターとの会話のなかで、本来は機密扱いするべきでない数学などの自然法則も秘匿の圧力にさらされていることを指摘している。
鶴田想人、塚原東吾 (編集, 著)
明石書店
戸田山 和久, デイヴィド・ブルア (著)
勁草書房
ロバート・N. プロクター (著)
宮崎 尊 (翻訳)
草思社
ピーター・ギャリソン (著)
松浦 俊輔 (翻訳)
名古屋大学出版会
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