アーティスト 岸 裕真氏に聞く
第2回 時代性と共振する表現のかたち

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

先行世代への敬意を抱きつつも、より柔軟でパーソナルな制作姿勢をとる岸裕真氏は、AIや他者との関係のなかで創造する新しい表現のかたちを追求している。多元的で開かれた社会像や、新しい世代のコミュニケーション感覚をバックボーンとする氏は、いまの時代をどう捉えているのか。

岸 裕真(きし ゆうま)

岸 裕真(きし ゆうま)

アーティスト。1993年生まれ。慶應義塾大学理工学部電気電子工学科卒業。東京大学大学院 工学系研究科電気系工学専攻修了。東京藝術大学大学院 美術研究科先端芸術表現専攻修了。人工知能(AI)を「人間と異なる未知の知性= Alien Intelligence」と捉え直しデータドリブンなデジタル作品や絵画・彫刻・インスタレーションを制作する。主に西洋とアジアの美術史の規範からモチーフやシンボルを借用し、美学の歴史に対する我々の認識を歪めるような作品を手がける。岸の作品は見る者の自己意識の一瞬のズレを呼び起こし「今とここ」の間にあるリミナルな空間を作り出す。主な個展に「Oracle Womb」(2025)、「The Frankenstein Papers」(2023)、参加企画展に「DXP2」(2024)、「ATAMI ART GRANT 2022」(2022)、受賞歴にとして「CAF賞2023ファイナリスト」などがある。著書『未知との創造:人類とAIのエイリアン的出会いについて』(誠文堂新光社)。公式サイト:Artist Yuma Kishi

目次

新しい世代のクリエイティヴィティ

都築 正明(以下、――)第1回では渋谷慶一郎さんとの制作と、そのプロセスでの厳しさについて伺いました。

岸裕真氏(以下、岸)完璧を目指す方々とコラボレーションさせていただくと、大いに刺激を受けるところがあります。渋谷慶一郎さんや池上高志さんのように求心力があり、周囲もその人のために多少の無理をしつつクリエイションをして、なおかつ成果物がグローバルで評価されている方々については尊敬を払わずにはいられません。その一方、自分たちの世代には、また異なるクリエイションやプロダクションの方法があるのではないかとも感じます。

世代的な温度差があるということでしょうか。

 そうですね。たとえば映画「パラサイト 半地下の家族」で、アカデミー賞4部門やカンヌ映画祭のパルムドールを受賞した韓国の映画監督ポン・ジュノは、すべてのカットの緻密なストーリーボードを事前に用意して臨み、午後5時には撮影が終了するそうです。私より1世代上にあたるチームラボライゾマティクスChim↑Pom(現:Chim↑Pom from Smappa!Group)のようなクリエイターは、コレクティブにおいてプレッシャーを緩和していたのだろうと思います。さらにその後続世代である私たちは、コントロール・フリークになるでもなく、必要であれば人の手も借りるというような緩い個人主義で活動している気がします。

MaryGPT1と対話をしているなかで“The Frankenstein Papers”を着想されたというエピソードは、そうしたスタンスですね。

 渋谷慶一郎さんに「人間から逃げている」と指摘されることがあります。第1回でお話した浪人生時代のように、ずっとデスクにいて、ときに空想世界に遊離することは、たしかに人間から逃げているように映るのかもしれません。しかし、私自身にはそれでもいいのではないかという開き直りに似た感覚もあります。たとえば情報革命の途上にいれば、インターネットやグローバルという言葉を希望として、宇宙船地球号として、いつ・どこにいても・だれとでも相互にコミュニケーションできる時代にしたいという野心を抱くことができたのかもしれません。また1960年代には宇宙船地球号がどこに向かい、その先にはだれが旗を立てるのか――そうした時代があったといわれますが、当時はそうでもなかったかと推察します。むしろ核の恐怖のもとで、人類の終焉を実感していた切ない時代だっただろうと思います。

個人(individual)から、より開かれた表現の地平へ

いま現在も厭世ムードは確実にありますよね。出口のなさを感じつつも狂躁的にふるまうような。

 将来のことについて、無理に夢を抱こうとすることに違和感があります。ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で、人間には他の動物にはない、虚構を信じる能力や存在しないものを集団で想像する能力があって、別の世界を思い描く欲求が世界を変えてきたと繰り返し述べています。私も「スター・ウォーズ」は子どものころに親といっしょに観ていましたし、いまでも「DUNE/デューン 砂の惑星」のような一大スペクタクルは好きですが、みんなが1つの方向をみるのではなく、個人がそれぞれに別の方向を向いて別の世界像を思い描いてよいのだと思います。オードリー・タンはグレン・ワイルとの書籍『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』(サイボウズ式ブックス)では、シンギュラリティ(単一性)ではなくプルラリティ(多元性)に基づく社会構想を提示しています。日本の政治でそれを目指しているのが「チームみらい」の安野貴博さんですね。

個々を尊重しつつ、デジタル参加型民主主義によって包摂するような社会像でしょうか。

 そうですね。タンはハンナ・アレント『人間の条件』の、人間の条件を個人に求めるのではなく関係性において求めるプルラリティの概念を、自身の社会モデルの基盤においています。タンの言葉として引用すると「多言語的に世界をみられるか」ということです。多元性を担保するためには、1頭のクジラのような大きなものが前を向いているというよりも、レオ・レオニ『スイミー』のように、個々がそれぞれの方向をみているけれど、結果として社会になっていることが望ましいと思います。

リーダーが牽引するのではなく、また単なる総和でもない、いわば群知能が創発するイメージですね。

 そのようにマインドセットを変えたうえで、いかに社会を前に進められるのかを考えたほうが、ストレスが生じづらいと思います。

岸さんの作品を拝見して、後期ドゥルーズが「いまや人間は個体 (individual:分割不可能なもの)ではなく、データの分割可能な部分、すなわち分割体(dividual:分割不可能なもの)である」と言ったような、個人も必ずしも1つのアイデンティティに縛られるものではないということを意識されているように感じました。

 個人という考え方が、近世から近代にかけて人々にインストールされた比較的新しい概念だということを最近知って、衝撃を受けました。同じようなショックを、小学校の算数について受けたことがあります。例えば動点Pが点Aから点Bまで秒速2センチで5秒間進められる――というような問題がありますよね。世界で前提とされている、自然を数学で記述する数学的自然科学はユークリッドからニュートンにかけて構築されたのですが、それは観察できる世界を俯瞰する私という、神のような視点によりもたらされています。こうした幾何学的な世界観を初等教育で履修して、中高生になると運動方程式を学んだり、どのベンゼン環が何と反応したらどうなるかということを学んだりと、知らず知らずのうちに神の視点を身につけていくわけですが、社会に出てみんなが神の視点から言動をしていたら、そこには分断が起きるわけです。

観察者自身もシステムの一員として参与していることを考慮に入れるべきとしたのが、セカンドオーダー・サイバネティクスを提唱したフェルスター2や、ダブルバインドを指摘したベイトソン3の立場ですね。

 環境や道具が認知を拡張することを論じたアンディ・クラーク4や、オートポイエーシスやエナクティブ・アプローチを提唱したフランシスコ・ヴァレラ5もそうですが、私たちがどのように社会や環境に巻き込まれているのかが重要です。いま私たちが話している状況においても、身体があり、同じ空間や空気を共有することでお互いに巻き込まれていなければ、よいコミュニケーションは成り立たちません。そう考えると、個人がもう少し開いた存在になるほうが居心地がよいと私は考えます。それを説明するときに、人工知能と私との共創だというのはよい通気口になるんです。

アーティストが往々にして作家として自己完結した主体性を要求されるなかで、AIという他者との相互関係のなかで創造したものだということになりますね。

 岡本太郎が好例ですが、どうしてもアーティストというとマッチョでエネルギッシュな印象が先行するように思えます。太陽のような存在で、みんなを牽引するような存在ですね。あるいは対極的に山奥や部屋に篭りきりで天才的な直感で絵筆を操るような個人主義のアーティスト像です。ポン・ジュノやオードリー・タンの名前を挙げましたが、私はもっと開かれた創作の仕方を考えています。

テクノロジーとメディア、表象としてのアート

桐原永叔(IT批評編集長、以下桐原)いまのお話には「IT批評」のコンセプトと通底しているものがあります。人間から逃げているという言い方よりも、他者への対峙のしかたや人に対する信頼感が前世代と質的に変化しているように思えます。他者に対する諦めのような、冷めた感覚があるようにも見受けられます。

 私は、物心ついたころからインターネットが家庭に普及していったデジタルネイティブと呼ばれる世代に属します。匿名掲示板の面白Flashのようなものがミーム化した最初の世代です。6歳のころにそれをみて、知らない大人と話そうと思い「はじめまして」というような書き込みをしたところ、総攻撃に遭いました。匿名の他者が自分に攻撃してくるのが怖いと同時に、それが人に対する接し方の1つを決めたような気がます。ストリーミングなどでも、コメントが湧いてきたりしますが、これはテレビや新聞などのメディアでは起こらなかったコミュニケーションです。人は目を見なくても、見ず知らずでも意見交換ができますし、それは学校や実社会のようなお行儀のいいコミュニケーションではなく、むき出しの暴言や卑猥な言葉でも成立します。そうした時代と環境とともに育ってきましたから、必ずしも人と交流しなくても、また人工知能のようなものとの交流でも構わないというコミュニケーションのスタンスになっていると思います。

桐原チームラボChim↑Pom(現:Chim↑Pom from Smappa!Group)といった方々が登場したころは、まだしも個人が文化や領域を越えてつながっていくネットワークやそのテクノロジーへの期待があったのではないでしょうか。しかし、たとえば匿名が多い日本のSNSが醸成させてきたのは、かつてないほどに断絶を突きつけられる状況です。クリエイターの人間観にもそれが表れているのかもしれません。

 カリスマ的なアーティスト像から、村上隆のようにフォロワーを集めて起業したり、チームラボやライゾマティックス、Chim↑Pomといったコレクティブがあって、その周辺を東浩紀さんが批評していました。また東さんはインターネット文化とオタクカルチャーをアートに接続するカオス*ラウンジと活動をともにしていたこともありますが、その関係も現在は解消されています。アーティストの布施琳太郎さんがその流れを意識的に引き継ごうとしている感じはしますが、テクノロジーやメディアで、その表象としてのアートの接続はあまり批評されているとはいえない現状だと思います。

YUMA KISHI “ORACLE WOMB” (2025) CURATED BY MARYGPT: NA ARCHIVE