知性の再定義─教養を資産にしない遊戯としての知

3:遊戯としての知性へ

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

教養という収束の装置

ホッファー、ベイトソン、カイヨワの合流点

 

教養という収束の装置

しかしいまの時代は、その遊戯的な知性を手放す方向へ加速しているように見える。「武器としての教養」「教養としての〇〇」、こうした言葉が示すのは、知を体系として所有し実用の道具として蓄積しようとする欲望だ。知識の優位が消滅しつつある時代に、人間は逆説的に、知を偏在させ独占しようとする。そのために目に見えるかたちで収束させねばならないのだ。「見える化」「言語化」というのも、その一端でしかない。目に見えないこと、言葉にできないことにこそ、人の知性の本質があるはずなのに。

教養とは本来、知を発散させ、問いを開きつづける営みであったはずだ。しかし「武器としての教養」は、知を収束させ体系に固定し問いを閉じる。ベイトソンのいう「予測可能な出来事の連続はその予測可能性ゆえに収束する」という洞察に従えば、体系化されダイジェスト化された教養は創発の可能性を摘みとってしまう。創発は予測可能であるはずがない。

教養主義の貧困は、歴史のなかで繰り返し露呈してきた。大正期に興隆した教養主義を想起したい。『三太郎の日記』への熱狂、西田幾多郎の哲学、岩波文庫の創刊といった動きは、西洋の知を体系として摂取し、内面を近代化するという理想を広く共有させた。それは一見、知の民主化のようにも見える。しかし同時に、何を教養とみなすかを限定し、知を特定の様式へと収束させる閉じた回路を形づくる側面も持っていた。少年の成長物語であるヴィルドゥングスロマンが「教養小説」と訳されてきたこと自体、自己形成の過程が特定の内面──いわば「正しい生き方」──へと収束するものとされてきたことを示している。教養と生き方を結びつける言論には注意しておきたい。

大正教養主義の帰結は二重の悲劇として現れた。認識論的には、体系化された教養が問いを閉じて創発を殺した。政治的には、陶冶された内面への志向が「日本精神の純化」というナショナリズムと構造的に接続し知識人たちは抵抗の言葉を失っていった。教養が収束の装置として完成したとき、それが形而上的なファシズムへと転化するのは容易い。知の「核」化、臨界を超えないよう管理され、使用されないことで威力を保つ、あの収束の論理と同じものが、教養の内側にも潜んでいる。

この収束とは、知の流れを遮断し、共有と変異の回路を閉じることにほかならない。

付言すれば、表現の共有を暴力的に断ち切っているのは著作権だけではない。教養もまた、知の流れを特定の様式に封じ込める装置として機能している。ヒップホップがグルーヴを共有財産として扱い、落語が演目を師から弟子へと手渡してきたように、そして優れた数学の定理や物理法則が発見者に独占されることなく共有されてきたように、知は本来、共有され循環し変異するものだ。

「武器としての教養」は、友敵関係をつくりだすことで知の資産化を促し、その循環を断ち切って特定の主体への帰属と独占へと収束させる。前回述べた著作権の論理と同型の構造である。

現代の教養ブームと陰謀論の隆盛もまた同型の欲望の双子である。カイヨワの遊びの4類型から見れば、教養への殺到はアゴン(競争)とミミクリ(模倣)の堕落した形態として読める。「正しい知の体系を所有する者が優位に立つ」という競争原理が、知の本来の遊戯性を圧し潰す。

一方で、陰謀論はミミクリの堕落の現れだ。「隠された真実の体系を発見する」という模倣的な遊びが制御を失った状態で展開されるのである。たとえば、SNSや掲示板で都市伝説や陰謀論を追いかけ、手がかりを集めて全体像を組み立てる行為、サスペンスやミステリー小説で伏線を読み解き犯人を推理する行為、あるいはオンラインARG(代替現実ゲーム)の謎解きのような活動は、いずれも現実の自分とは別の役割に入り込み、情報を収集して全体像を組み立てる遊びだ。

陰謀論では、現実そのものが信用できないものとして捉えられる。「ニュースも公式発表も、すべてわたしたちを騙す」という前提のもと、陰謀論者にとって自分たちが手ずから発見する情報や体系こそが「真実」となる。この世界では、思考の自由は制約され、何を信じてよいのかの基準を陰謀論に合わせざるを得なくなる。

サスペンスやミステリーのような遊びでは、現実と仮構の区別を意識しながら、自由に推理や模倣を楽しむことができる。しかし、AIや高度情報化によって、倍速視聴やダイジェスト的な情報消費が当たり前になり、情報や推論を手軽に得られるようになると、こうした自由な試行や仮構が狭まり、思考の余白が失われる。その結果、謎解きパズルのような思考の喜びを陰謀論で回復しようとすることになり、「自分だけの真実」に依存する歪んだ遊戯性が社会に噴出する。これこそミミクリの堕落、すなわち社会的に危険性をもちうる「遊戯の堕落」の構造に他ならない。

 

ホッファー、ベイトソン、カイヨワの合流点

では、遊戯としての知性とはどういうものか。エリック・ホッファーは、人類の発明の多くが実用的な必要性からではなく「遊び」から生じていると論じた。弓は音楽から、農耕は栽培の楽しみから。実用が遊びを生むのではなく、遊びが実用に先行するのだ、と。

これをベイトソンのメタコミュニケーション論と重ねると、さらに深い洞察が生まれる。遊びとは「これは遊びだ」という枠組みの発明であり、現実を「別様にもありえた」と見るメタ認識の開口だ。ホッファーのいう遊びが実用に先行するとはつまり、メタ認識が現実の作り替えに先行するということだ。遊びという現実でない枠組みのなかで試行されたことが、やがて現実を変える実用へと転化する。ベイトソンの学習Ⅲとはそのプロセスそのものではないか。あるパラダイムを恣意的な構築物として見る瞬間は、まさに「遊び」のメタ認識が開く空間であり、そこから初めて新しい現実の設計が可能になる。

1991年、リーナス・トーバルズがLinuxを開発し無料で公開したのは「それが面白かったから」だという。実用でも利益でもなく、遊びとしての知の共有。それがオープンソース革命の出発点だった。世界中のプログラマーたちがその遊びに参加し、それぞれの改変と発散のなかから、現代のインターネットインフラの根幹が生まれた。知を武器として独占しようとした瞬間に知は硬直し、知を遊びとして手放した瞬間に知は増殖した。知を求める思考の喜びは、こうしたかたちで実現する。武器や資産として求め、所有しようとすれば、それはただの実用であり、思考の喜びは削がれる。

ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』でいう。文化は遊びのなかで、遊びとして発生し発展してきた。法律も、宗教も、戦争でさえも、遊びとして始まった。遊びとは、現実の外側に設けられた自由な仮構であり、勝敗も利益も超えた、純粋な「もしも」の探求だ。AIはそれを持たない。メタコミュニケーションを持たないAIは、「もしも」という仮構の枠組みをそもそも設定できない。だからこそ、AIとともに生きるわたしたちは、その遊びを意識的に守ることを求められている。

カイヨワの遊びの分類に従えば、真の創造性はミミクリ(模倣)の遊戯性──現実の枠組みを一時的に離れ、別の何かに「なりきる」能力──のなかにある。AIのハルシネーションは欠陥ではなく、メタコミュニケーションの枠を持たない存在が、現実と虚構のあいだを漂うミミクリの一形態として読めるかもしれない。そのAIの「不完全な模倣」が、人間の側の創造性を刺激するとしたら、それはまさにホッファーの逆説──「未完の(二流の)作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい」──の現代版だ。

遊戯としての知性とは、知を所有から解き放つことだ。体系として固定せず、資産として独占せず、メタファーと現実のあいだを自在に往来し、問いを閉じずに開きつづける。AIというダブルバインドの存在が、論理階型なきまま現実と虚構のあいだを漂うとき、その不完全さこそが、わたしたちの遊戯的な知性を呼び覚ます火種となるのかもしれない。「教養」という名の収束の装置に殺到するのではなく、不完全なAIとともに問いの荒野へと踏み出すこと。それがAIの時代における知性の再定義の核心ではないか。

大杉栄は「美は乱調にあり、階調は偽りなり」と宣言した。第1回でわたしはこの言葉を引いた。AIが統計的な最適解として生成する「偽りの階調」に対し、わたしたちがそれを遊戯的に“誤読”し、乱調を生み出すとき──そこに人間の知性の居場所がある。

「知性の再定義」というタイトルを掲げながら、わたし自身はすでにその言葉に引っかかりを感じている。再定義とは、新しい定義で古い定義を置き換えることだ。しかし知性とは、そもそも定義によって固定できるものなのか。

知性は再定義できるようなものではない。もちろん、定義しきれるものでもない。知性を定義しようとすれば、知性そのものを用いて知性を規定しなければならず、自己言及という循環、すなわちトートロジーを免れられない。それは、どこにも確定的な到達点を持ちえない。だが、AIとの関係のなかで、知性のこれまで顧みられてこなかった側面の重要性が増していることは確かだ。それは、知識を蓄積する力ではなく、それをどの水準で扱うのかを見極め、「これは遊びだ」と位置づけるメタ信号を発する働きである。その能力を意識的に磨きつづけるところに、いま知性のひとつの条件が立ち現れてきている。

この観点から見れば、現在の教養主義のあり方も問い直される。教養は本来、変化に対抗するための基盤として求められてきたはずだが、知識を資産のように蓄積することに傾いたとき、それはむしろ硬直を生み、テクノロジーの加速的な進化に対して遅れをもたらすものになっているのではないか。

次回はこの問いをさらに深め、教養論と陰謀論というふたつの収束の欲望が、いかに同型の構造を持ち、いかにして形而上的な権力へと融合していくかを考察したい。AIが引き起こす不確実性の遍在が、人間をその融合へと駆り立てる力学を読み解いていく。