海馬オルガノイドから心と生命を探究する
国立成育医療研究センター 精密創薬研究部実験薬理研究室 室長 坂口秀哉氏に聞く
第3回 海馬オルガノイドはこうしてつくられた
坂口秀哉氏へのインタビュー第3回では、いよいよ海馬オルガノイド誘導のプロセスが語られる。記憶を司る海馬の秘めたさまざまな謎について聞くとともに、海馬と脳をめぐるさまざまな疑問についても答えていただいた。
取材:2026年1月29日 国立成育医療研究センターにて
坂口 秀哉(さかぐち ひでや)
国立研究開発法人国立成育医療研究センター 精密創薬研究部実験薬理研究室 室長。医学博士。2008年熊本大学医学部医学科卒業。学部生時代は精神科医を志すが、初期研修医時代に神経・精神疾患の病態に迫ることの必要性を感じ、神経内科を専攻。合計4年間の臨床経験のなかで難治疾患の根治療法の将来的展開に向けて、三次元のヒト神経組織創出による研究基盤の確立を志向する。2012年より理化学研究所CDBに所属し、ヒトES細胞からの大脳や海馬領域の三次元分化誘導研究に携わる。2016年京都大学大学院医学研究科博士課程修了。2016年4月より京都大学iPS細胞研究所にて大脳オルガノイド研究の基盤構築や脊髄オルガノイドの分化誘導研究、大脳オルガノイドの移植研究などに従事。2019年米国ソーク研究所、2020年理研BDR-大塚製薬連携センター上級研究員を経て、2025年より現職。海馬オルガノイドを基軸に組織構築の自己組織化の解明を目指しつつ、オルガノイド技術を通した神経変性疾患および精神疾患研究を推進している。
目次
海馬オルガノイド誘導のプロセスは
都築 正明(IT批評編集部、以下――)海馬オルガノイド誘導のプロセスを教えてください。
坂口秀哉氏(以下、坂口)海馬オルガノイド誘導のプロトコルとしては、まず大脳皮質を誘導します。大脳皮質を誘導する条件で始めるのですが、誘導の18日目である程度大脳の領域が固まったところで背側化因子を添加します。それもずっと入れるわけではなく3日間や6日間にわたってトランジェントに(一時的に)入れると、部分的に海馬に寄ってくれるわけです。すると結果的に海馬領域を含む背内側終脳領域全体を含む形として三次元誘導できます。先ほどオーガナイザーと言いましたが、このタンパクを産生する部分がいっしょにできることによって、自己組織化的な発生ももたらされます。
――誘導に用いるのはES細胞でしょうか、それともiPS細胞でしょうか。
坂口 最初はES細胞でした。その後iPS細胞でも行いました。
――脳オルガノイドというと、脳全体ができるような誤解があると思いますが、そうではないですよね。
坂口 そこには一家言あります。オルガノイド(Organoid)というのは英語で“臓器(organ)のようなもの(-oid)”という造語です。「ミニ臓器」ともいわれますが、オルガノイドというのは本来“オーガ・ライク・ティッシュ(Organ-like tissue:臓器に似た組織)”なのです。そこに“ブレイン(Brain)”という言葉をつけて用いたのは科学者ではなくその紹介記事からです。科学者は“大脳オルガノイド(cerebral organoid)”という言葉を当初使っていたのですが、雑誌の紹介記事が“ブレイン・オルガノイド”という表題をつけました。
――ほかの臓器のオルガノイドとは異なりますね。
坂口 その後”ブレイン・オルガノイド”という言葉がひとり歩きしていきました。この言葉をそのまま聞くと「脳のようなもの」と受け取られがちです。すると、あたかも科学者が人工の脳をつくっている印象を与えることになります。そういった事情からか、人文系の研究者と倫理の話をしているときに「“脳のようなもの”をつくるのは倫理的にまずいのではないか」と言われたりします。そのたびに、大脳領域や海馬領域など求める領域をつくっているのであって、決して脳そのものをつくっているのではない――と、訂正しなければなりません。ニューラルオルガノイドや神経オルガノイド、もしくは領域ごとに海馬オルガノイドという言葉を用いれば、脳そのものをつくっているという誤解はないと思うのですが。オルガノイド研究者らが2023年に提出した論文には“ブレイン・オルガノイド”という呼称は不適切だと記載されています。科学者同士の会話では問題はないと思いますが、一般の方などを対象とした時に言葉が持つイメージというのが非常に大事だということに気づきました。
――脳ときくと「意識は生まれるかも」と考えがちですが、そうしたものではありませんよね。「報道リアリティーショー ABEMA Prime」でも“脳オルガノイド”と紹介されて、先生が訂正される場面がありました。
坂口 あの番組には出演してよかったと思いました。一般の方に認知されるようになりましたし、街中などでお声がけいただくことも多々あります。
――茂木健一郎先生も、製薬に役立つことやセレンディピティについて話されていて、全体的にモデレートな議論になっていました。脳については融通無礙にさまざまなことが言われます。「海馬オルガノイドは意識を持つのか」という問いもありました。
坂口 脳を客観的にみることはできないので、理論の置きかたや思想に応じてなんとでも言えてしまうところがあります。意識については多くの人が語りたいテーマですから、こうあってほしいという願望と、データで科学的に示せるものと乖離が大きくなる傾向があります。ご自身の願望がさも事実であるかのように語られたりする方にも出会うことがありますが、事実と願望を分けて議論することが大事ですね。
オルガノイドが顕らかにすること
――脳については、神経作用や脳内物質の分泌についてなど、往々にしてデータもこじつけられます。
坂口 オルガノイドのよいところは、脳を細胞レベルでみられることです。いままでの脳科学は、脳波やfMRI(functional Magnetic Resonance Imaging:機能的磁気共鳴現象画像法)、PET(Positron Emission Tomography:陽電子放射断層撮影)など脳の機能を外側からみて、こういうストレスがかかっているときにどの部位が活動しているというエビデンスを蓄積してストーリーとして類推したものでした。そうしたデータは機械によって計測したもので空間解像度が十分でなく、個人の思考内容などの細かいことと結びつけるには粗いデータだと思います。それに対してオルガノイドは、体を持っていないので全体としての機能をいうのは難しいかもしれませんが、お皿の上に生きたその3次元組織としてありますから、細胞レベルの活動をみることができるのが強みです。また介入して、どう反応するかという実験ができることも大きく、いままで触れることのできなかったところを触ることもできるようになります。
――昔はできなかったことができるということですね。
坂口 オルガノイドより前は、モデル動物を用いた実験系でメカニズムを探索したり、患者さんの脳のなかで何が起こっているのかがわからないままに薬で治療したり、試行錯誤の中で効果があった治療を行うといったことがベースでした。そこに加えてオルガノイドによってヒト脳組織を用いてメカニズムレベルで迫ることができるという期待が生まれましたし、実際にできるポテンシャルを有していると思います。
――これまで向精神薬を処方されていたASDや統合失調などの精神疾患のある方について、生じた表現型が非定型なのかどうかを探ることもできるかもしれません。
坂口 そうかもしれません。その一方で、オルガノイドの限界も語っておいたほうがよいと思います。あたかも全てを万能に行えるように期待されがちですが、オルガノイドの限界は、培養組織なので培養期間に依存するということです。また体がないので情報の入出力もなく、学習はありません。海馬オルガノイドも、脳ではなく小さな領域です。そのなかで何がみえるのかという問いを立てられると、それは有効です。
――どのような疾患に有効でしょう。
坂口 たとえば海馬だけが関わり遺伝的素因をベースに小児期に発症するような疾患であれば、培養期間が短くてすむオルガノイドでのモデリングはとても良い研究プラットフォームになると思います。一方、老年期発症の変性疾患については単純なオルガノイドの実験系では難しいと思います。アルツハイマー病は60〜70歳で発症しますから、オルガノイドをそれほど長期間培養することは難しいです。
――培養期間はどの程度なのでしょう。
坂口 オルガノイドの構造を安定して保っていられるのは、120〜130日から150日の間だと思います。培養するだけでしたら、なにかが混入しなければ年単位で培養できるのですが、そのときには構造が崩れて神経の塊になってしまいますから、私はそれがオルガノイドだとはいえないと思います。
――遺伝性疾患の病因が、非定型の拡散係数にあるというような仮説は立てられるのでしょうか。
坂口 遺伝子をキャリーオーバーすることができますから、遺伝性の疾患を持つ患者さん由来のiPS細胞を作成すると、その方の遺伝子が引き継がれます。その状態でオルガノイドをつくり、健常者と比較することができます。発症の直接原因かどうかまではわからないですが、細胞の動態や形態に違いがあるとすれば、それは発症要因の1つと考えてよいのではないかと思います。そうした発症に繋がるような健常者との違いを、これまで遺伝子の変異として語っていたものを、より動的で様々なスケールで語る、そういうツールになると思います。
――遺伝子レベルでの治療といえばCRISPR-Cas9*3などのゲノム編集が話題になっています。
坂口 ゲノム編集をいきなり疾患治療として患者さんに使うには、あまりにリスキーだと思いますが、オルガノイドでまず効果を試すことができれば、脳であればその遺伝子によって何が起こっているのかを突き止めて、そこに対しての薬効評価の形でターゲティングする、といった感じにより実現性を持った使い方ができると思います。
CRISPR-Cas9*3:CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)は、ガイドRNA(gRNA)が標的となるDNA配列を認識し、Cas9ヌクレアーゼがその部位をピンポイントで切断することで、遺伝子を破壊(ノックアウト)または修正(ノックイン)する、高効率で安価なゲノム編集技術
SF的想像力ではなく、現実の治療に根ざす
――脳全体をつくるわけではないというお話がありましたが、SFやアニメではボディオイドのような全身のクローンが描かれます。
坂口 現実にはまだまだあり得ないですよね。私は中学1年生のときに「新世紀エヴァンゲリオン」が放送された“エヴァ世代”で、録画して熱心に見直したり考察本を読んでいた世代です。自分でもサブリミナルを忍ばせたパラパラ漫画を描いたりもしていまして、そういうSF的な未来を望む気持ちはよくわかるのですが――やはり現実的にはまだまだ難しいです。
――液体のなかに漂う無数の綾波レイのクローン……それこそ制作者の願望の投影ですね。
坂口 トマス・クーンが『科学革命の構造』で書いたようなパラダイムシフトは起こり得ますが、科学の発展というのは地道な積み重ねの上に技術革新があって、その先にはやはり地道な積み重ねがあります。革新が起こればすべてが一気に進むという飛躍はありません。海馬ができれば脳ができ、人ができるという発想も同様です。オルガノイドについては一時期エンハンス(拡張)をいう人たちもいました。人体にオルガノイドを入れて、それまでになかった機能を獲得したり、いまの機能を強化したりできるのではないか――海馬オルガノイドで記憶を強化できるのではないかというように――として“Expansion and Enhancement”を主張して、それをデュアルユユースすることを危惧されるような議論もあったりしたのですが、そこまで論理を短絡するのはやめてほしいというのが正直なところです。「マウスが喋りはじめるのではないか」ですとか。
――“拡張と強化”の願望ですね。
坂口 移植に関してはまず、オルガノイドがホスト脳に定着して機能するかどうかという現実的な課題があるわけです。私としては、これまでに報告された移植論文のオルガノイドは、私たちが思うような脳組織の一部としてきちんと機能はしてないと思っています。脳という、感覚器からから情報をインプット/アウプットする洗練されたところに異質なものを入れたところで、うまく統合していきません。例えば脳梗塞や外傷で失われた脳の領域があって、そこにオルガノイドを補填すれば同じようにワークすることが期待できそうですが、そこには適切な神経回路が形成されることが必要になります。そういうなかで、マウスがしゃべるといったような元々なかった新たな機能を獲得したり拡張するというのは、現状ではまだまだ想像し難いです。移植細胞によって記憶の回路を強化すると想定しても、それが本当に記憶の形成に繋がるかの証明の過程が必要になります。
――そもそも私たちの記憶がどのような形をしているかは、人の脳を使っているかぎりはわからないと思います。
坂口 私たちが自分たちの頭で考えた仮説や願望を語っているに過ぎないわけです。神経と神経はシナプスで繋がっているからシナプスの数を増やせば賢くなりそうに思っても、実際はそうとは限らないです。
――私たちの表象そのものが変容する可能性がありそうです。
坂口 脳というのはただ単に強化すればよいわけではなく、適切な数と適切な結びかたがあるヴァルナラブル(繊細)なものだと思います。脳が複雑系だからこそ、足し算ではうまくはいかないはずです。
――トランスヒューマニストのなかには、ブレインテックでそれができると語りたがる人たちがいます。
坂口 前頭葉にDBS(Deep Brain Stimulation:深部脳刺激療法)で干渉して精神疾患を治す研究もされていますが、それこそ元の機能をきちんと理解した上でなければ危ういのではないかと思います。パーキンソン病の方にDBSを用いて中脳の神経核に刺激を与えて震えなどを止める療法は確かにありますが、それは運動の調節に関わる部分なので治療法として成り立っていると思います。運動系を刺激によって調整してあげることによって過剰な運動を止めるわけですから。しかし、例えば重症うつ病の方の前頭葉にDBSで介入して感情を調節するというような話については、事情が異なると思います。倫理的な課題になりますが、その人自身の人格を変えることになれば人としての尊厳を傷つけることにもなりかねません。
――たとえば向精神薬を飲みつづけている人がその人自身なのかという議論もありますし、服薬に否定的な人もいますが、これはインフォームドコンセントである程度は選択的になされています。また、非定形な発達のある方を治すというのも僭越な話だと思いますし、IT批評でも話を伺った東京大学の長井志江先生のお話(https://it-hihyou.com/recommended/49679/)では、非定型の発達において困るのは当事者ではなく周囲の人だということです。確かに眩しかったり内受容感覚がなかったりといった日常生活を阻害することを補うことは大切だとは思います。しかし個人的には、内面に関わることを多数派に当てはめることについては強い拒否感と抵抗をおぼえます。
坂口 全く同意です。