マスメディアは何に負けたのか?インテリジェンス・トラップとメリトクラシーの地獄
第2回 能力主義の罠 サンデルが問う社会の歪み
能力主義(メリトクラシー)は、公正で希望に満ちた理念のように見えながら、実際には社会の分断を深める要因ともなる。政治哲学者マイケル・サンデルは、努力や才能を評価する仕組みの裏に隠された不平等を指摘し、裕福な環境で育った者が有利な競争の中で「正義」を絶対視する危険性を論じる。能力主義がもたらす政治的な対立構造とは。
目次
メリトクラシーがもたらす“正義”感
政治哲学者のマイケル・サンデルが『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳/早川書房)で論じたのは、リベラルな理念のもとに発達した能力主義(メリトクラシー)が現代社会の分断を深めていることだった。
封建時代の名残を引きずった身分制度・階級社会に変わる能力主義は「努力すれば報われる」「才能さえあれば認められる」という理念を押し進めた。生まれや育ちよりも、本人の努力が人生を決定する。持って生まれたもの以上に、生まれたあとに身につけたものが大事なのだという教えそのものは耳に清しい。
ところが、サンデルが解明していったように、能力主義の裏側に潜んでいるのは決して公正な競争ではない。
誰もが同じ点からスタートしているわけではないのだ。生まれつきの才能だけなら、スポーツや音楽の世界ではスタート時点で大きな差が発生しているのはお馴染みだ。これは社会や科学における才能でもほぼ同じだ。
もうひとつが育成環境の違いだ。経済的に裕福で教育熱心な親のもとに育つ子と、貧困層で子どもの未来より日々の暮らしに重きを置かざるを得ない家庭で育つ子とでは、とうぜん差がつく。塾や家庭教師といった教育投資の差のみならず、幼い頃から博物館、美術館、遠方旅行に連れていかれ、家には本に囲まれた居間があり、両親やその友人たちの知的な会話に囲まれて育つ子と、近所の悪童や怠惰な大人たちを日常で目にする環境で育つ子には、もって生まれたもの以上の差が出る。
こうした経済的背景や社会的資本の差を度外視して能力主義を信奉されたら、社会には歪みが出る。
才能に恵まれ、環境にも恵まれ、そのうえで努力も重ねることで、十分な収入を得られるようになったエリート層は、みずからは市場的(すなわち対価としての報酬)にも道徳的にも価値があると考えるようになる。非エリート層に対し、じゅうぶんに収入を得られず貧困に苦しんだり、社会的な地位を得られなかったりするのは、努力が足りないからだ、怠惰だったからだ、苦難を知らないからだと、エリート層は考えるようになる。
マイケル・サンデル (著)
鬼澤 忍 (翻訳)
早川書房
ISBN:978-4150506025
エリート層と非エリート層の分断
エリート層が知っている苦難とは、東アジアでも過酷に行われている受験戦争である。自分が選ばれるための戦いは、選ばれないことの苦痛に真から怯えさせプレッシャーとなって襲ってくる。
SAT(大学進学適性試験)を潜り抜け、一流大学への入学を果たした若者の多くが、燃え尽き症候群に陥ったり、ノイローゼになったり、アルコールや薬物に依存したりする例をサンデルは紹介している。
こうした能力主義の桎梏は大学入学をもって終焉するわけではない。入学後もそして卒業後も、この過酷な戦いは継続する。
SATが示した数値が入学前の自分の価値ならば、学生時代の価値は成績になり、卒業後のそれは収入に表れるわけである。
エリート層が自己正当化、みずからの“正義”を絶対化するのはこれだけの期間があるのだ。何も幼児的な万能感によって彼らはみずからの“正義”を誇っているわけではない。
非エリートなわたしたちは得てしてこの点を誤解する。なんの苦労も知らず、親の助けでいい稼ぎをしやがって、と。対してエリート層は努力も知らずプレッシャーも知らずに能天気に生きてきて貧困だから保護してくれなんて勝手を言うのもいい加減にしてくれ、と。
こうして分断はますます深まっていく。
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