MUCA展、「ワーニャ」、「悪は存在しない」
不自由なのか、孤独なのか?

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テキスト 桐原永叔
IT批評編集長

リバタリアン的、コミュニタリアン的

『私たちはいつから「孤独」になったのか』を読んだばかりだったわたしは、「ワーニャ」を観ながら思った。このワーニャの翻案であるアイヴァンという男は現代の意味において孤独だろうか。ソーニャの翻案であるソニヤはどうだろうか。ふたりともにあるのは強い疎外感だ。それは家庭の議論の中心を奪われていることと同時に、恋愛の敗者であることによってもたらされる。『私たちはいつから〜』でも恋愛においてソウルメイトから引き離される孤独について論じられていた。しかし、わたしにはアイヴァンもソニヤも疎外された者であっても、孤独だとは思えなかった。

なぜなら彼らはお互いに励まし合い、慰め合うことができる。そして、地方のお屋敷、森林という自然にふかく根差し、仕事がある。これは映画「ドライブ・マイ・カー」においてワーニャ的な人物であった家福、ソーニャ的人物であった渡利がもたないもので、その意味で家福と渡利の孤独は現代的な味わいをもっていたし、映画の結末にもたらされる、その恢復はひとつの答えを観客に与えてくれるものだった。

アイヴァンとソニヤの悲劇は、むしろ自由をもたないことにあるのかもしれない。選択できるはずの人生をもたないことにあるのかもしれない。屋敷と森林に取り囲まれて脱出できないという近代的な苦悩なのかもしれない。

わたしは考えている。では不自由はほんとうに不幸なのだろうか。啓蒙する者が求め、人類普遍の価値とする自由とはほんとうにわたしたちを幸福へ導くのだろうか。自由はわたしたちを幸福するのだろうか。

『私たちはいつから「孤独」になったのか』から、わたしが読みとったのは自由も孤独も政治的に生産されたものだということだ。わたしたちの多くは、ほんとうは選択もしたくないし選択肢について考えたくもないのではないか。

そういえば『断腸亭日乗』を読めば荷風の孤独を感じる。独居老人のそれも、家族から引き離された孤独も、時勢と結託する卑怯な文壇と相容れないがための孤独もある。しかし、それは選ばれた孤独だ。荷風は実弟夫婦との不仲から自ら関係を断絶しており、母親の危篤にも見舞いにいかない。母親を愛していながら、だ。荷風は自由であった。

だからこそ、ある意味で近代的な存在でもある。荷風は選べる人であるし、選択肢について考えたい人であった。彼が相手した陋巷の女たちにはそれはない。自由らしきを欲しながら変化を考えない。考える苦労があるぐらいなら自由も面倒だ。それが市井の人々の現実であるような気がしてならない。

不潔で愚かな生活をワーニャがどんなに嫌ったとして、清潔で生産的な現代は決してワーニャを幸福にしないだろう。そして、不潔で愚かな生活に安逸する当時の農奴たちも、清潔で生産的な現代を疑うことのない“社畜”たちも、そのままでいたいだけだ。自由なんかは面倒なだけ。

先月、NTTと読売新聞がだした「生成AIのあり方に関する共同提言」を読んで、わたしがまっさきに思い出したのはヒトラーのようなデマゴーグの言説はすぐにでもAIは生成可能だし、それはこれだけ答えだけを求める人が多い現代では簡単に浸透してしまうのではないかということだ。孤独で疎外感を味わっている現代人に、明確な答えを提示し扇動するのはAIの力があれば、カリスマも知能も要らない。

ナチスに容易に賛同した大衆の権威主義的パーソナリティについて、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(日高六郎訳/東京創元社)にあるように、人々は自由であることの重責と孤独に耐えかねて「選ばされた自由」に靡いてしまうとナチスまっさかりのドイツで考えていた。

いま、自由であることの重責と孤独に耐えかねた人たちの前にデマゴーグAIが登場したらと思うとゾッとする。

「読売新聞とNTTが生成AIのあり方に関する共同提言を発表」

自由からの逃走
エーリッヒ・フロム著 日高六郎 訳
創元社
ISBN:978-4-488-00651-8


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