何故なしに生きるということ
「PERFECT DAYS」と神秘主義
平山と三上の生きる道
映画「PERFECT DAYS」のオープニングカットはかなりなローアングルだ。繰り返される日常のタイムスタンプとなる竹箒で道を掃く音がし、竹箒を握った老婆のむこうに平山の住む安アパートが映る。そのアングルはまるで安アパートを宮殿か神殿かのように見せる。小津映画へのオマージュとして──厚田雄春のカメラによる──ローアングルかと勘繰ったが、小津映画では建物をそういうふうには撮らない。はたして、ローアングルで見上げられた安アパートは荘厳な僧院のような印象として残る。
平山の日常を禅僧のそれに準えることも簡単だろう。しかし、平山に禅僧を見るには世間への未練が煩悩めいて見え隠れする。かといって禅を離れたミニマリストとしてみても、そこには主義や信条はまったくない。
平山はどこかで世間を覗きこんで未練を残しているし、──役所広司がインタビューで意外な演出だったと驚いていたように──仕事仲間の柄本時生の急な退職によって増加した業務についての不満を雇い主に強い口調で言うシーンも、スナックのママのお世辞にヤニさがったり、その逢瀬に出くわして慌てふためく姿はけっして悟りのそれではない。
無口ではあるが、その内奥にある感情は静謐なままではないのだ。むしろそれが平山の魅力になっている。
それでは平山は頓悟を目指しているかといえば、わたしにはそういうふうにも見えないから清掃業務や生活態度は修行のようにも見えない。それは修行とはべつに祈りのように見えるのだ。願いではない。祈りだ。自力ではなく絶対的な他力にすがるような。
この映画を観て、同じく役所広司が主演した西川美和監督の映画「すばらしき世界」を思い出した人は多い。「すばらしき世界」はノンフィクションライターの佐木隆三が書いた『身分帳』(講談社文庫)を現代に置き換えて、佐木の自身の語りをTVディレクターの若者を狂言回しにした構成になっている。
主人公となる元ヤクザで元殺人犯の名も、小説の山川から映画では三上に変えられている。この三上は、平山と見事な対照をなす。きっとほかにも同じことを論じる人がいるだろうから、あまり立ち入らないが、平山が現在の一瞬に生きようとする禅の僧侶とするなら、三上は過去の呪縛を解き現在に踏みとどまろうとする悪人正機説の浄土真宗の信徒だ。三上の過去はそこらじゅうに刻印されている。体には刺青があり、心にはトラウマが残っている。対して、平山の過去は語られないし、わずかに姪を迎えに来た妹の佇まいから上流な育ちを想像させるのみだ。それは経済的な上流なのか、教養的な上流なのか、いや現代は経済的な豊かさが教養の豊かさの必要条件であるなら、そのどちらともの上流なのだろう。
平山の生活に過去がみえるのは本と音楽だが、それも学生時代以降の成熟がみえるものでもなく、気の利いた大学生ほどの趣味といえば、そういえるもので特別な家柄を示唆するとも言い切れない。
西川美和 (監督)
役所広司 (出演)
バンダイナムコアーツ (販売元)
佐木 隆三 (著)
講談社
ISBN:978-4065201596

