新しい「大きな物語」のために
ヒューマニズムを更新する試み
進化ではなく遷移
情報(データ)の価格は資本主義の市場原理によって決定している。偏在がもたらす希少性を付加価値化することこそ資本主義の本質的な部分だろう。わたしはケリーのいうテクノロジー、あるいは前回の最後にとりあげたリチャード・ドーキンスのミームのようなものは、それ自体で再帰的(なぜこういうかは後述する)に自己増殖を図るものだと考えている。新型コロナウィルスの拡散をとめることができないように、テクノロジーの拡散をとめることはできないと考えている。
コロナウィルスがそうであるように、最新のテクノロジーは市場原理を超越するのではないかと思う。ハラリ(そして、レイ・カーツワイル)の論に反して訴えておけば、テクノロジーは御神託のように独占されるものではなく、ある種の真理として普遍性をもって拡散するものでなければならない。最新のテクノロジーが古いパラダイムを破壊してゲームのルールを変えるのなら、一部の富裕層のみを潤わせるテクノロジーが先端的でも人類史的でもあるはずがない。
核爆弾をいくつかの国が独占しているじゃないかという反論もあろう。しかし、いま核爆発が起これば、その被害は遍く人類に行き渡る。発射ボタンを押した独占的な国家に対しても。いや、過去数十年の間に繰り返された核実験の負の遺産はすべての人類にのしかかっている。独占を狙った一握りの人々にも同じように危機をもたらしたのだ。核の危機に格差はない。
梅棹忠夫の有名な著作にもう一冊『文明の生態史観』(中公文庫)がある。これもまた今ブームの人類史の魁のような著作である。梅棹は、東洋、西洋といったそれまでの分類で世界史をみるのではなく、ある種、地政学のように立地する地域によって文明の生態系に違いがあることを指摘した。人類の文明は先端的な地域と後進地域に分類され格差が生じてきたというよりも、それぞれの環境に合った文明が発達した。文明の違いは先進/後進の格差ではなく、それぞれ別の生態系があるということだ。梅棹はいう。
進化ということばは、いかにも血統的・系譜的である。それはわたしの本意ではない。わたしの意図するところは、共同体の生活様式の変化である。それなら、生態学でいうところの遷移(サクセッション)である。〈中略〉サクセッション理論が、動物・植物の自然共同体の歴史を、ある程度法則的につかむことに成功したように、人類共同体の歴史もまた、サクセッション理論をモデルにとることによって、ある程度は法則的につかめるようにならないだろうか。
『文明の生態史観』
進化ではなく遷移。ここが肝要な部分だ。状態の推移変化であって、他から抜きん出ることではない。テクノロジーが私たちにもたらすものも実は進化ではなく遷移なのではないかと思うようになっている。
進化ではなく遷移だからこそ、偏在ではなく遍在しうるのだ。
