遍在するツールとしてのAI、偏在するアクセスとしての格差
DX(デジタルトランスフォーメーション)の本当の未来
テクノロジーは想像力の乗り物
生命は遺伝子の乗り物だという有名な一節で知られるリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(日髙敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳/紀伊國屋書店)で、遺伝的な伝達のみならず文化的な伝達を論じるために生まれたタームが「ミーム」である。ドーキンスはミームを論じた章で、科学の進歩と自然淘汰による遺伝的な進化にふれつつ(その元祖をカール・ポパーにみている)、遺伝子が繁殖する際に精子や卵子の間を飛びまわるように、ミームも繁殖の際には脳から脳へと渡り歩くと述べる。まるでミームはあふれだし遍在すると言っているようだ。そのうえでミームをテクノロジーと言い換えても大きな間違いにはならないだろう。
わたしは思う。生命が遺伝子の乗り物というのなら、テクノロジーは人間の欲望や想像力の乗り物である、と。そして、それはつねにあふれだし漂う。ドーキンスは、人間の脳はミームが寄生するコンピューターだともいう。そして、ミームも遺伝子同様に残忍で利己的なものだという。
デジタル化が進む時代(ダイソンのいう第三の時代)に入って、情報は情報を複製するようになったと先にみた。自己複製、自己増殖こそ遺伝子に与えられた使命であり、情報もまた複製と増殖を使命とする。文化的遺伝子たるミームも同じだ。
新たなテクノロジーはほとんど利己的なまでに拡散、増殖するのだ。人の脳から脳、手から手へ。パーソナルコンピュータを扱うスキルも、インターネットで身につけたスキルも、スマートフォンを身体化するスキルも、そしておそらく生成AIが人間のなかに生みだす新しいスキルも、国籍、人種、宗教、業種や業態、年齢、性別を超越して拡散、増殖するはずだ。
ダイソンのいうように、わたしたちはそれをデジタルにはコントロールできないだろう。わたしたちがコントロールできるのは、わたしたちの想像力であり欲望のほうなのだ。
ただドーキンスに従えば、わたしたちの想像力や欲望も、その遺伝子の指示に則っているだけということになってしまうのだが──。
リチャード・ドーキンス (著)
日高敏隆, 岸由二, 羽田節子, 垂水雄二 (翻訳)
紀伊國屋書店
はじめにレイ・カーツワイルの思想的な根底を感じたのは10年ほどまえのEテレの番組だったと思う。そのとき、わたしは得体のしれない不気味さを感じたが、それは必ずしもテクノロジーへの嫌悪と一致するものではなかった。そのせいで、その不気味さを考える日が続いた。それがこの半年ほどで一気に、過去の自分に回答できるところまできた。
それがどうだといわれれば、なにもいうことはないのだが──。
