東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く
(2)「科学なし/だけ問題」の時代に、前提条件を疑うということ

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

数学の言葉で世界を書き換える?

桐原 ITやAIの若い研究者の方々の話を聞いていると、テクノロジーや科学の倫理について無頓着なようで違和感を抱くことがあります。前例のない特殊なことを試みようというスノビズムが見受けられる気もするのですが、これも応用ばかりを重視してきた傾向の延長でしょうか。

野家 山中伸弥さんがiPS細胞を開発してノーベル賞を受賞したときにも、どんな難病が治療できるか、どんな医療技術に応用できるかということばかりがマスコミでは取り上げられました。生殖細胞に遺伝子を注入する技術は倫理的な問題を大きく含みますが、そうした側面にはマスコミもまったく目を向けていませんでした。今の若い方たちが、技術面から研究に取り組んで、それに伴うさまざまな倫理的・哲学的な問題に関心を寄せないというのは、日本のこれまでの科学技術の受容のありようを悪い意味で反映しているのだと思います。

桐原 先生の本では、よくガリレオ・ガリレイの「宇宙は数学の言葉で書かれている」という言葉が引用されます。現在のAIやITの技術者や研究者は、世界を数学の言葉で読み解くことを通り越して、数学の言葉で世界をつくり変えようとしているようで、なにか大切なことを見落としているように思えます。

野家 近代科学は、このガリレオの言葉を出発点として宇宙を理解しようとして発展してきました。しかし、それはあくまで物事の一面にすぎません。ガリレオの時代ならまだしも、20世紀後半になると科学知識や技術開発は社会と密接にかかわってきます。最近よく「トランス・サイエンス」という言葉で表されるように、科学が社会構造や私たち自身の選択に深くかかわっていて、科学だけで自己完結してはいない。私たちは、数学の言葉で書かれている宇宙の構造を解読できればそれでよし、というわけにはいかない時代に生きています。科学技術が政治や経済、社会と切り離しようがない時代に入っていて、自然科学だけで自立することは不可能です。トランス・サイエンスというのは、科学がさまざまな領域を横断して成立していることを表す言葉です。環境問題にしてもパンデミックにしても、科学がなければ解決できませんが、政治や経済や社会や文化ともかかわっているわけですから科学だけで解決できるわけではない。大阪大学の平川秀幸さんは、科学なしには解決できないが科学だけでも解決できないこれらの問題を「科学なし/だけ問題」といっています。私自身も、私たちが直面するすべての問題を通じて、この「科学なし/だけ問題」が喫緊の課題である時代に生きていると思います。

桐原 AIに携わる人たちは数学の言葉で人間そのものを書き換えられると考えたり、メタバースに携わる人たちは数学の言葉で社会を書き換えられると考えたりします。また貧困などの社会問題についても数学とAIの力で解決できるというようなテクノロジーのユートピアが語られることもあります。さすがにそれは素朴すぎるし無邪気すぎると思えるのですが。

野家 テクノロジーというのは、あくまで社会のなかに組み込まれている1つの装置に過ぎません。それをどのような方向に用いるかというのは人間の判断や決断に委ねられていますから、自動的にユートピアが生まれるわけではありません。ボタンを掛け違えれば、あるいは方向を間違えれば、ユートピアを目指した結果がディストピアになってしまう。たとえば至るところに防犯カメラやセンサーが設置されて個人の行動をすべてビッグデータとして把握されるようになれば、利便性は向上するものの、強力な監視社会が到来します。科学技術的なユートピアはディストピアと表裏一体ですから、そのことに意識的でなければ、気がつけばディストピアへの一歩を踏み出していたということになりかねません。

桐原 まさにディストピアとユートピアの境目こそが「科学なし/だけ」の間にあるスラッシュにあたるのかもしれませんね。

野家 私が科学哲学を志したきっかけとなった1969年の広重徹さんの論文「問い直される科学の意味」でも、すでに科学技術によって管理社会の徹底化が進むことが危惧されていました。当時の大学闘争はそうしたことに若者の抱いた危機感の現れではないかという指摘です。その意味では、最近の若いAIエリートや技術者は、無邪気なようにも能天気なようにも見受けられます。

桐原 パラダイムやらエピステーメーといった見地から考えると、若いころからパソコンがあってプログラムを組みながらサイエンスに向き合ってきた人たちに共通した価値観やフレームがあるのでしょうか。

野家 そうですね。情報教育やプログラミング教育が学校教育に導入されたときに、情報倫理もカリキュラムに組み入れるべきでしたが、技術一辺倒になってしまい、かんじんの情報倫理がなおざりになっています。私の目からすると、そうしたことがネット上のいじめや犯罪にもつながっているのかもしれないと感じられます。

桐原 プログラム教育のように論理的アプローチから言語に接すると、ロジカル・シンキングは得意になっていくのかもしれませんが、子どものうちから還元主義的に世の中を眺めるようになるかもしれないという気がします。

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