官僚主義と“善”の陳腐さ
映画『生きる-LIVING』は名画か?

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

官僚の生きがいとブルシットジョブ

ドナルド・リチーは『生きる』を官僚映画だと述べている。『生きる』にも『生きる-LIVING』にも官僚たちの退屈な仕事が描かれている。しかし、それはデヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳/岩波書店)で論じて話題になったような無駄で意味のない仕事とはちょっと違う。

それはまだ戦後まもない1950年代と、なにもかもが飽和した2010年代との違いかもしれない。1950年代には公共の目的を誰もがだいたい共有できたし、そのためにすべき仕事は単純であった。どちらの映画の主人公にとっても、汚水の処理であり、子供たちのための公園建設は向き合うべき正当な問題だったのだ。いかにも社会が成長している最中でみながより豊かになることを望んでいた時代の話ではないか。

ちょっとした思考の遊びで、これを現代に置き換えてみれば時代の違いがよくわかる。都庁に勤める職員A氏は余命数カ月と知って、杉並区あたりの再開発に立ち上がり不衛生な駅裏の権利が入り組んだ共同所有区域の飲み屋街を一掃して緑道をつくろうと立ち上がる。

市民運動家の反対にも屈せず、粘り強く土地を買い取って……というような。そういえば黒澤の『生きる』でも中村伸郎(『秋刀魚の味』でも名演!)が演じる助役が、渡辺がつくった公園を政治の道具にしようとする。インフラ整備は政治的な行為と直結しやすく、その分、現代ではなおさら反対派の逆風も強い。今だってどっかの都知事が明治神宮外苑あたりでゴタゴタしてるじゃないか──。

思考の遊びは遊びとして、『生きる-LIVING』は舞台を現代に置き換えてこそ翻案の意味があったのではないかとも思う。1953年に舞台を設定したことで、『生きる-LIVING』は単なるファンタジーになってしまっている。人間普遍の愚かさも虚しさもファンタジーで覆われて、デオドラントなドラマが供される。

現代に置き換えることを望むのは、現代の私たちの仕事のほとんどが愚かな部分までまるごと官僚的なものになっているからだ。哲学者のニック・ランドは『暗黒の啓蒙書』(五井健太郎訳・解説、木澤佐登志 解説/講談社)で進み過ぎた民主主義と平等主義の現代で、仕事はどれも官僚的な権威主義に陥っているという。

ランドはそうした社会の仕組みを「大聖堂(カテドラル)」と呼び、資本主義を極限にまで推し進めることでイグジット(出口)せよという加速主義を論じる。暗黒の啓蒙なのは、これまでの西洋社会の良識を突き抜けるものだからだ。

新反動主義ともいわれ、グローバルなテック企業の多くの創業者を輩出したペイパルマフィアの創始者であるピーター・ティールなども代表的な人物として取り上げられる。ピーター・ティールは過激なリバタリアンであり、トランプ元米大統領のブレーンでもあった人物だ。

規制も管理も撤廃してテクノロジーとともに資本主義を加速することで、官僚化して蝕まれている私たちの生きがいを取り戻すというのだ。だからペイパルマフィアの代表的な人物であるイーロン・マスクがChatGPTに衝撃を受け、AI開発の6カ月間停止を訴えたとて、裏の意味やポジショントークを疑うほかない。

ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

デヴィッド・グレーバー (著)

酒井 隆史, 芳賀 達彦, 森田 和樹 (翻訳)

岩波書店

ISBN:978-4000614139

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暗黒の啓蒙書

ニックランド, 木澤佐登志 (著)

五井健太郎 (翻訳)

講談社

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