官僚主義と“善”の陳腐さ
映画『生きる-LIVING』は名画か?

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

人間普遍の愚かさと虚しさ

映画『生きる-LIVING』を観に行く際に、私が最も関心を注いでいたのは映画史的にも有名な、ほとんど教科書的ともいえる物語構成をイシグロがどう扱ったかにあった。黒澤の『生きる』で有名なのは、物語の中盤で主人公が死ぬという構成である。突如はじまる通夜のシーン。繰り広げられるのは黒澤が得意とする葬式や結婚式などに人物が集うことによって生じる見取り図的なドラマの集約と、さらには記憶の行き違いによる──いまでは世界でも「ラショーモン(羅生門)状態」という──ポリフォニックな語りだ。

ノーベル賞作家であるイシグロはなんの衒いも韜晦もなく黒澤映画の構成を踏襲した。むしろより細かいモチーフの翻案にこそイシグロらしさを感じさせた。そうした細部はじゅうぶんに映画的な真実を組み立てていたし、イシグロの小説を読んで感じるような憐れみも心地の良い感傷であった。

しかしながら私が抱いた違和感は拭えない。それは涙を拭う観客の姿、感動を言い合うレビューにふれてますます強くなる。違和感の理由を突き止めようとDVDで黒澤の『生きる』を観なおした。思えば、黒澤映画の多くがそうであったように、普段はテレビを観させてもらえなかった子供のころ、唯一、父親が推奨し観させてくれたのが黒澤映画だった。もちろん『生きる』もその時分に観ている。

子供の私が黒澤の『生きる』から得た感動は、おそらくは父親の影響もあったろうが、ヒューマンドラマに対するそれではなかった。『生きる』の主人公・渡辺勘治がたったひとつ世界に遺したのは小さな公園である。父はよく「猫一生に鼠一匹」というようなことを言う人だったが、子供の私が得たのは「ダメ役人の小さな公園」という教訓なのだ。

それは皮肉に満ちていて、どこか滑稽なものだ。感動があるとすればトラジックコメディーとしてなのだ。死ぬことがわかって慌てて生きようとする姿を滑稽なもの、それは人間普遍の滑稽さと受け取った。「どんなやつでも死ぬまでに何かひとつぐらいは遺すものさ」というような皮肉なのだ。

ポストモダンなヒューマニズムへの疲れが父親を通して私にもあったとしたら、それはテレビで『生きる』が放映された1980年(長い沈黙の後、巨匠が『影武者』を上映する年の特集放送だったろう)ころの醒めた空気のせいかもしれない。

映画批評家ドナルド・リチーの『黒澤明の映画』(三木宮彦訳/キネマ旬報)に、志村喬の演技が過剰だったという黒澤の発言が残っている。その通りで『生きる』の渡辺勘治は大仰に自身の悲劇を嘆くし改めて生きようとする決心でさえ、背後のハッピーバースデイの合唱もふくめてどこか児戯めいている。

通夜で交わされる人物評も、助役や部下たちには見えない渡辺の本質は良心をもつ者だけが知っていたという「裸の王様」ふうの説話だ。私はむしろ通夜で誓いあったあれだけの決心が翌朝の役所のデスクのうえで雲散霧消することの虚しさのほうにこそ人間の普遍を感じる。

ドナルド・リチーは同書で、黒澤の『生きる』の海外での評価を紹介している。映画の後半が冗長でもうすこし短縮できたのではという評価があったそうだ。今回の『生きる-LIVING』ではその部分はコンパクトにまとめられている。おまけに志村の過剰な演技に対する黒澤の反省さえ、ビル・ナイの演技に活かされている。

その点で映画としてはより完成されたものと言えるのかもしれない。

しかし、その洗練や端正が人間普遍の愚かさの味わいを薄めてしまったのではないか。

新しい脚本によって新実存主義の時代にふさわしいヒューマンドラマになったと言えればよいのだが、それは旧いヒューマンドラマへのノスタルジーでしかなかった。

影武者

黒澤明 (監督)

仲代達矢, 山崎努, 萩原健一, 倍賞美津子 (出演)

東宝 (販売元)

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黒澤明の映画

ドナルド・リチー (著)

三木 宮彦 (翻訳)

キネマ旬報

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