マルクス・ガブリエルと小沢健二
ニヒリズム/メランコラリズムを超えて響く「新実在主義」とポジティヴィティ

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

ニヒリズムにもメランコラリズムにも陥らない

正直に告白しよう。私は数年来、マルクス・ガブリエルに違和感に似たものを抱いてきた。それは明確ではないが、どうにも釈然としない感覚だった。

そもそもは、『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』(マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン著/斎藤幸平編/集英社新書)で斎藤幸平との対談において、トランプ元米大統領をニーチェが定義した「金毛獣」と呼び、ナチスの思想の一部を支えたニーチェに対しまったくの拒否を示したこと、そして、全体主義を議論の余地のない絶対の悪として一方的に否定する言説に触れていたからだ。

哲学者がこのような思考放棄をしてよいのだろうか。ましてや、天才と称され今世紀を代表する哲学者にならんとしているガブリエルの言葉とはとうてい思えなかったのだ。同対談では、斎藤幸平による落合陽一らテクノロジストへの批判へも同調し反科学を明確にしていることも、なんだか短絡に思えた。いや、そんなはずはない。こうした言説は、戦略的なもので実践的に全体主義を退けるためのものだと考えようとしたが、どこか受け入れ難く感じていた。古びたリベラリストの感想文のように感じたのだ。

そのガブリエルの新実存主義について、先に挙げた『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』で岩内はむしろこれまでの伝統的な哲学態度によって身動きを封じられてしまわないために思考されていると読み解く。ニヒリズムにもメランコラリズムにも陥らないで、私たちの“生”というリアル(実存)をいかに考えるか。そのためには自然科学から得られる経験に根拠を求めるべきではないし、思弁的な袋小路をうろつくのではなく経験的に壁をぶち破ることが必要なのではないか。萎びたヒューマニズムを、多様性のなかに失われた人間への信頼を、今いちど取り戻すしかない。ガブリエルはそう訴えていると岩内の書籍から読み解くことができたのだ。

それはショッキングな発見だった。自分自身の在り方の不明を理解することだからだ。

話は逸れるようだが、かつて小沢健二が終わりのないおしゃべりで現実を洒落たフレームに入れるフリッパーズギターを解散したとき、こう歌った。

もう間違いがないことやもう隙をみせないやりとりには嫌気がさしちまった
(中略)
本当のことへと動きつづけては戸惑うだけの人たちを笑う

小沢健二「カウボーイ疾走」

小山田圭吾が「尾崎豊のようだ」といった、この小沢のポジティビティの眩しさを思い出したのだ。確信犯めいたポジティビティでニヒリズムもメランコラリズムも焼き払った。「すべての音は鳴ってしまった」というポストモダン的な状況にあったポップ、ロックシーンで新たな地平を切り開くために、もっともニヒリスティックだった小沢が手にとったのは、小沢がかつて自意識過剰に避けていたポジティビティだったのだ。

ガブリエルはニヒリズムとメランコラリズムを超えていくために、確信犯的に直線的に信念を訴えているのではないか。そう思えたのだ。

資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐

マルクス・ガブリエル, マイケル・ハート, ポール・メイソン (著)

集英社

ISBN:978-4087210880

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