神話の構造がエンパワーする“人間”への帰依

REVIEWおすすめ
テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

前回、書いたように近代が神の物語から人間の物語の変換の時代だったとしても、私たちはまだ神話を求めている。それはエンターテイメントでも、マーケティングでも、もちろん信仰においても──。

 

 

目次

『マイホーム山谷』のカタルシス

英雄の旅

2つの神話体系

消費社会の神話

旅と冒険を嫌うこと

 

 

 

 

 

『マイホーム山谷』のカタルシス

 

古くからの友人が今年度の小学館ノンフィクション大賞(第28回)を受賞した。友人だからという贔屓目を抜きにして非常に面白かったのだが、その理由を説明するとなっていろいろ考えるところがあった。
小学館ノンフィクション大賞を受賞したのは、友人である末並俊司さんの『マイホーム山谷』(小学館)である。受賞を記念したトークショーにゲストとして呼ばれたのは6月18日だった。そこで、他のゲストとこの作品の魅力を語り合った。私は、著者である末並さんが山谷へ入ることへの怯えや戸惑いについて質問した。そこにポイントを感じたからだ。私はひとつの結論として、この作品のカタルシスが、──主人公である──山谷にホスピスを創建し世間から注目を浴びた男性への共感ではなく、著者である末並さんの人生の恢復によってもたらされていると述べた。
とはいえ、トークショーの限られた時間のなかでは、どうしても私自身で納得できる考えに至らなかった。どうしても作品の魅力、読みはじめたら途中で置けなくなるような構成の力について語り尽くせた気がしなかったのだ。
ネタバレしないように内容を述べれば、『マイホーム山谷』はドヤ街でホスピスを成功させながら没落し、今や介護を受ける側になった「山本さん」の半生を描いたものだ。モチーフには、ドヤ街での生活、介護をする側/される側の思いが織り交ぜられる。重要なのは、著者がジャーナリスティックな視点で、社会問題として山谷を捉えていないことにある。むしろ著者は著者自身の個人的問題を山谷に投影しているとさえ言える。
著者は恐れを抱きつつも山谷に救済を求めて訪れる。希望通りの救済は既に失われているが、山谷の他では見つからない何か新しい希望のようなものを嗅ぎ分けたのか、著者はその後も山谷を訪ねつづける。そのようにして、この作品ができた。
ごくごく簡単に述べてしまえば、こうなるのだが、それ以上に読者を惹きつけてしまう魅力にウェルメイドと言いたくなるような精緻な構造がある。私が、そのことに気づいたのはトークショーの翌日だった。

 

マイホーム山谷
末並俊司  著
小学館
ISBN9784093888578

 

 

英雄の旅

 

アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』上下(倉田真木、斎藤静代、関根光宏訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は、映画監督ジョージ・ルーカスに大きな影響を与え、映画「スター・ウォーズ」シリーズのストーリーテリングに取り入れられていることは映画ファンでなくとも有名だ。余談だが、映画「スター・ウォーズ」は黒澤明の「隠し砦の三悪人」からの影響も決して小さくなく、ルーカスはチャンバラを演出したくてSFをつくったのではないかとさえ思う。
「スター・ウォーズ」に取り入れた神話構造でもっとも普遍的で人々を魅了するのは“英雄の冒険(Hero’s journey)”である。あらゆる神話の単一的な構造を「モノミス」という。このモノミスたる英雄による冒険譚は、ギリシャ神話のオデュッセウスから日本神話のヤマトタケルに至るまで世界各地の神話に同じ型が見られる。
「スター・ウォーズ」も主人公であるルーク・スカイウォーカーという英雄の冒険が基本の構造となっており、キャンベルの理論をなぞっている。英雄は姫と出会い、父と対決の末に邂逅するという細かなモチーフも、「スター・ウォーズ」には取り込まれているは、「スター・ウォーズ」ファンならずとも知っていることかもしれない。民俗学者、折口信雄が唱えた貴種流離譚も英雄の冒険の変曲であるのと同時に、ルークが実はベイダー卿の子であるという「スター・ウォーズ」の展開も正しく貴種流離の類型である。
さて、私がなぜ『千の顔をもつ英雄』、あるいは英雄の冒険をもちだしたのかといえば、それこそが『マイホーム山谷』の構造に同一のものを見出したからである。『マイホーム山谷』は現代的な問題をめぐる神話なのだ。
著者の末並さんは“魔境”である山谷に“冒険”に出る。彼が求めたのは自身の両親の介護に対する悩みの解決である。その解決策を持っていると思われるのが、ホスピスを成功させた「山本さん」なのだ。あえて神話構造で分析すれば「山本さん」は父性的な存在である。
しかし、発見した“父”にはすでに解決の力はなく、著者(英雄)は父の存在を乗り越えていく。これもまたイニシエーションめいたエピソードである。これ以上はネタバレなので伏せるが、その後には、“姫”となる女性の存在があり、それが著者を救済へと導く最後のピースになる。
この構造はそのままキャンベルが図示した円環(出立→イニシエーション→帰還)をなす英雄の冒険パターンに一致している。著者は成長を遂げて日常へと帰還していく。作品はほとんど美しいばかりの構造によって読者を惹きつけてやまない。
友人の特権で、著者に質問したところ、こうした構造は巧まずして表されたものだと知った。作中に話者として登場する著者は決して英雄然とはしていない。いや、むしろその飾らない様子が、作劇法として「魅力的な話者」の機能を果たしている。

 

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕 上
早川書房
ジョーゼフ・キャンベル著 倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳
ISBN9784150504526

千の顔をもつ英雄 新訳版 下
ジョーゼフ・キャンベル (著)倉田真木・斎藤 静代 ・関根 光宏 (訳)
早川書房
ISBN:978-4-15-050453-3

 

 

 

2つの神話体系

 

先に、キャンベルの神話構造については世界各地に見られると書いたが、実は少し注意が必要だ。キャンベルが分析した“英雄の冒険”といった神話構造は主にユーラシア大陸からアメリカ大陸に見られるものである。
実は神話にはもう一つの構造がある。それはアフリカ、オーストラリアを中心とした地域に見られるものだ。
ユーラシア大陸からアメリカ大陸に見られる構造を「ローラシア型」と言い、アフリカ、オーストラリアを中心とした地域に見られるそれを「ゴンドワナ型」という。ローラシア、ゴンドワナと聞いて大陸移動説を思い出せるなら、それぞれがいかに伝播していったかを想像しやすいかもしれない。
ローラシア型に比べると、ゴンドワナ型はより古く個々の神話の共通性は弱い。しかしながら、動物や自然、精霊や神と人間に階層がなく共存する世界像では一致する。ゴンドワナ型は、ホモ・サピエンスがアフリカに誕生しアフリカを出てインド、インドネシアを経由してオーストラリアのアボリジニにまで広がったと考えられており、ローラシア型より古いのはこの点による。これも大陸移動説の大陸の動きに沿う。
一方のローラシア型は、時間をかけて地球全域にホモ・サピエンスが定着していった後に成立したと考えられており、現代の私たちが接する物語にも共通の想像力の働きが見られる。キャンベルが“英雄の冒険”としたのは主にローラシア型にみられる。
ローラシア型の構造は、西アジアから広がったアブラハムの宗教の各経典にも受け継がれている。モーゼやイエス、モハメッドをカリスマにするのは、この構造によってともいえる。いや、ブッタの半生も正しく貴種流離譚であり同じ構造とみるのも難しくはない。私たちが何らか大きな力に救済を求めるとき、その展開は神話の構造に沿っているのも宜なるかな、というわけだ。
日本神話について付記しておくと、ローラシア型の構造を色濃く持ちながらも、ゴンドワナ型の残滓も見られ、2つの型の混合だとする研究もあるようだ。それだけでも、日本人の祖先がどこから来たのか、想像を逞しくさせる。
この神話の2大構造については『世界神話学入門』(後藤明著/講談社現代新書)がわかりやすい。

 

 

世界神話学入門
後藤明著
講談社現代新書
ISBN978-4-06-288457-0

 

 

 

消費社会の神話

 

現代において神話といえば、以前も取り上げたジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(今村仁司、塚原史訳/紀伊國屋書店)がすぐに想起されるかもしれない。今回、取り上げるのは神話とタイトルのあるもうひとつのフランス現代思想の書『神話作用』(ロラン・バルト著、篠沢秀夫訳/現代思潮新社)である。
バルトはボードリヤールと同じく記号による差別化、階層化が現代の神話を織りなすと論じる。バルトはその記号が有する機能を神話作用と呼ぶ。意味としては部分のみを示す記号が全体を象徴する場合、その記号は普遍性を得て流布される。さして意味のないものに、大きな意味を与える作用とも言える。それがマーケティングにおいてはブランドになっていくわけだ。
企業ブランディングにおいてはロゴやデザインといった記号が重要なのは言うまでもない。何となれば、現代の消費者は機能や効果ではなく、ブランドにこそ余分な金を使うからだ。
ブランドの神話性をもう少し掘り下げていけば、たとえばアップルの創業者、スティーブ・ジョブスの半生はもはや神話を逃れて語ることは難しい。その天才や運命は唯一無二の物語としてジョブスに刻印される。これこそ神話作用の最たるものだろう。ジョブズをみるまでもない。本田宗一郎や松下幸之助の生涯もそれはビジネスパーソンにとって神話であり不可侵なものだ。
現代の神話は、社会の価値体系のなかで意味づけされ現代的な価値を象徴していく。資本主義の勝者はやはりビジネスの成功者であり、それはアメリカ的な価値である。アメリカンドリームこそ現代の神話といえる。
バルトは神話作用をデノテーション(明示的な意味)とコノテーション(潜在的な意味)の二重構造と論じる。アップル製品は先進的機能と個性的なデザインというデノテーションによって、それを所有するユーザーのセンスや生き方をコノテーションとして示すのだ。スタバでマックブックを広げる行為(デノテーション)は現代的に自由な働き方をするビジネスパーソン(コノテーション)を象徴する。あらゆるブランドはこうしたストーリーを求める。
本田宗一郎は、中卒のエンジニアが世界に冠たる自動車会社をつくったという明示的な物語の内側に天才と努力によってしか成し遂げられない成果を得る選ばれし者という潜在的な意味が含まれて神話になるのである。
余談を加えれば、すこし前の時代ではあれば芸術家たちの半生もこのようにして神話化した。ベートーヴェンが、死んだイエスを抱くマリアの構図であるピエタに模して描かれたのは、ベートーヴェンを神格化する働きである。創作的苦悩というデノテーションは、神的才能というコノテーションを象徴しているのだ。ベートーヴェンの神格化については『聴衆の誕生 – ポスト・モダン時代の音楽文化 (渡辺裕著/中公文庫)が参考になる。この音楽家の神話も、たとえばジョン・レノンやカート・コバーンにまで引き継がれる。彼らにはさらに殉教者のイメージがあり、さらに神格化が進んでいる。
経営者や芸術家を神格化したいのは、もちろん私たちだ。

 

 

消費社会の神話と構造 (新装版)
ジャン・ボードリヤール【著】今村 仁司/塚原 史【訳】
紀伊国屋書店
ISBN9784314011167

神話作用
ロラン・バルト (著) 篠沢 秀夫 (翻訳)
現代思潮新社
ISBN4329000598

聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化
渡辺裕 著
中央公論社
ISBN978-4-12-205607-7

 

旅と冒険を嫌うこと

 

私たちは神話によって価値判断を支援しようとする。神話的な構造を本能的に嗅ぎ取って、あるいは神話的な構造を知らず知らずに取り込むことで、世界のなかに階層をもたらし、その把握の助けにしているのかもしれない。ことに資本主義社会においてそれはブランドとして機能している。より高価なものは、ただ高価であるがゆえに隠された意味(コノテーション)を主張するのだ。持ち物が一流であれば、持ち主も一流であるという意味づけだ。
それは学歴や経歴、資格などあらゆるものに付随する作用であり、不確実性の高い社会ではブランドはますます私たちの価値判断のヨスガになる。
フランス思想に神話という概念を持ち込んだのは、構造人類学を打ち立てたクロード・レヴィ=ストロースである。神話に構造があると最初に見抜いたのもレヴィ=ストロースだ。レヴィ=ストロースはまた西欧中心主義をもっとも早く批判した知識人であった。非ヨーロッパの文化文明の研究によって、それまでの社会を支えていた絶対と思える価値を相対化してしまった。単に“未開”であり、やがてヨーロッパのように秩序だって洗練されていくと考えられていた非ヨーロッパの社会にも、すでに秩序と構造があり洗練があることを見抜いたからだ。
レヴィ=ストロースの構造主義は、人間中心主義への批判でもあった。そもそも、この人間とはヨーロッパ人のみを指すような場合も多い。前回にフーコーが終焉を予告した“人間(ヒューマニズム)”でもある。
中身より構造が先にあるとすれば、ヒューマニズムは成立しにくくなる。
人間の意志や思想が構造を求めるのではなく、構造が意志や思想を決定する。内容によって外見が変わるのではなく、外見に合わせて内容が決まると言ったらわかりやすいだろうか。この考え方はブランディングに通底している。デザインが機能や効果に優先される。記号が実態に優ることこそ、ブランドの本質だ。
レヴィ=ストロースは有名な『悲しき熱帯』ⅠⅡ(川田順造訳/中央公論新社)の劈頭で「私は旅や探検家が嫌いだ」と書き付ける。それは人間が中心の神話への拒絶のようにも読める。“人間”というコンセプトへの帰依を拒否しているように読める。

 

悲しき熱帯 Ⅰ・Ⅱ
クロード・レヴィ=ストロース 著 川田順造 訳
中央公論社
ISBN978-4-12-160004-2