存在論的不安がもたらす終末論とノスタルジー
シティ・ポップ・ブームから考える成熟後の近代

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

目次

シティ・ポップの原風景

アンダーグラウンドに流入し、蒸発するシティ・ポップ

リバタリアンの希求する技術的特異点

ダブ・ステップの背後に横たわる脱出のヴィジョン

陰謀論とノスタルジーが曇らせる想像力

 

 

 

 

 

 

シティ・ポップの原風景

 

ここ数年1970〜80年代の日本の楽曲がシティ・ポップとして国内外で評価を受けている。例として、海外のDJの手による松原みき「真夜中のドア」や竹内まりや「プラスティック・ラヴ」のリミックスがYoutube上で人気を集め、オリジナル音源がSpotifyのバイラル・チャート上位になったことなどが挙げられる。逆輸入や再評価として、国内の親子や祖父母と孫が耳を傾けていることを想像すると、なんとも微笑ましい。

このシティ・ポップという音楽ジャンルには明確な定義があるわけではなく、この呼称そのものも2000年代になってから用いられたものだ。最大公約数としてまとめると、政治的なニュアンスを捨象したフォークソングとして位置づけられていたニュー・ミュージックのなかに登場した、アメリカを中心とした洋楽の影響を色濃く受けた音楽、ということになる。楽曲の特徴としては、それまでのフォークソングやニューミュージックがイオニアン・スケールとダイアトニックコード中心だったことにたいし、黒人音楽ルーツのブルーノートやテンションコードなどを多用する。またサウンド面では、ベースラインの強調やボーカルのオーバー・ダビングなどを特徴として挙げることができる。

このジャンルにまとめられるミュージシャンもさまざまだが、代表的なバンドとしては、はっぴいえんど(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)やシュガー・ベイブ(山下達郎・大貫妙子・村松邦男・寺尾次郎・上原裕)、ソロアーティストとしては荒井由実(現:松任谷由実)や竹内まりやといったところだろう。メンバーがみな東京出身であることもあり「都会的で、洗練された」音楽として受容された。

とはいえ、シティ・ポップの映す風景が当時の東京の実像ではないことも念頭に置きたいところだ。これらの楽曲が誕生した日本は高度経済成長の真っ只中で、少なくとも「シティ」としての東京は、消費文化の極北としての広告都市という意味あいが強い。戦後の雌伏のときを経てきた日本がエズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』に溜飲を下げていた時代にユートピアとしての東京があり、そのころの楽曲が再び注目されているのが正確なところだ。2024年2月末に日経平均株価がバブル経済以降最高を記録したことが話題になっているが、シティ・ポップが受容される2つの時代の間には、バブル崩壊後30年以上つづく経済停滞が伏流している。

 

 

アンダーグラウンドに流入し、蒸発するシティ・ポップ

 

これらシティ・ポップの流行を受けて、かつての名盤がアナログ・リイシューされることも増え、しかも続々と品切れになっている。しかしそれ以前からも、日本の中古レコード店には多くの外国人客が訪れ、アナログ盤を大量に購入する姿が散見されるようになった。日本のシティ・ポップの旧盤を手にする姿もよく見られる。これは、かつてない円安のもとで日本がレコード・コレクターの恰好の「狩り場」になったからに他ならない。

日本のシティ・ポップの音源は、おもにvaporwaveというジャンルの音楽に「元ネタ」として用いられる。Raddit(掲示板型ニュースサイト)や4chan(“2ちゃんねる”創設者の西村博之が運用する匿名掲示板サイト)やその分派である8chan(現8kun)ウェブ上の音楽コミュニティから生まれ、Bandcamp(音楽販売サイト)などで販売される楽曲だ。主にパソコンとDAW(Digital Audio Workstation)のみでつくられる音楽で、日本の音楽を元ネタにした音楽群は現在、Future FunkというVaporwaveのサブジャンルとなっている。

もともとのvaporwaveは、商業施設でBGMとして流されるエレベーター・ミュージックやMUZAKといわれる、耳馴染みがよく印象にも残らない音楽をピッチダウンしたうえで拍をずらし、違和感をおぼえさせる音楽的な遊びだった。こうした楽曲の空虚なイメージは、無人のショッピングモールや旧型のゲーム機のヴィジュアルとともに配信されて、増幅されることとなった。当初これらは高度消費社会や物質文明への風刺であったものの、次第にノスタルジーとして受容されるようになっていく。ノスタルジーといっても、つくり手も受け手も、その時代を経験したわけではない。こうしたフィクションとしての高度消費社会と日本のシティ・ポップのビジョンとが合致して、より虚構性の高いジャンルが誕生することとなる。vaporwaveのオリジネイターとされるトラック・メイカー、Vektroidことラモーナ・アンドラ・ザビエル――MAC プラス、New Dreams Ltd、情報デスクVIRTUAL など複数の名義を使用――はbandcampのインタビューで、自身が影響を受けたものとして、今敏(アニメーター)、ナムコのゲーム、ディープWeb(検索エンジンからアクセスできないサイト)、陰謀論、トランス・ヒューマニズムなどを挙げている。こうした経緯もあり、vaporwaveはネットカルチャーと隣接するオルタナ右翼と呼ばれるリバタリアニストのBGMになっていく。

 

 

リバタリアンの希求する技術的特異点

 

リバタリアニズムとは、個人的自由と経済的自由の最大化を是とする政治思想である。アメリカのリバタリアン党を創設したデイヴィッド・ノーランは経済的自由をX軸に、個人的自由をY軸に置いた“ノーラン・チャート”において、第1象限(経済的自由:高 個人的自由:高)をリバタリアン、第2象限(経済的自由:低 個人的自由:高)をリベラル、第3象限(経済的自由:低 個人的自由:低)を権威主義、第4象限(経済的自由:高 個人的自由:低)を保守として位置づけた。

国民国家に干渉されずに自己利益を拡大する――リバタリアンのバイブルとされるアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』は、没落するアメリカを捨てたリバタリアンがコロラドに新世界を創造する思考実験の寓話だ。成功したビジネスエリートが国家の徴税や規制を逃れようとするのは珍しくないように思えるが、リバタリアンに顕著な特徴は、ビジネスよりコンセプトが先行していることだ。トランプ政権時代に「影の大統領」ともいわれたピーター・ティールは電子決済システムPayPalの創業者と知られているが、スタンフォード大学の学部時代は哲学を学び、1980年代後半に西洋文化中心への反省から他民族主義や多文化主義に舵を切りはじめた大学に対して攻撃的な運動をしかけ、保守系学生新聞「スタンフォード・レビュー」を創刊したりもする。また、師事していたルネ・ジラールの「個人の欲望は他者の欲望を模倣する」という論を受け、無意味な競争に巻き込まれず超越的なものを目指さすべきだ、という後のビジネス観にも接続するリバタニアリズムを涵養する。ティールはその後同大学のロースクールに進学したのちに法曹関係の職に就くが「仕事に超越的な価値を見いだせない」との理由で、いくつかの事務所や企業を短期で退職している。いくつかの事業に失敗したのちに1996年に友人とともにコンフィニティ社を創業、翌1999年に同社がPayPalを立ち上げたことからキャリアを好転させる。PayPalの拡大のために買収した金融サービス会社X.comを率いていたのがイーロン・マスクであり、かれは一時期CEOを努めた。2002年にIPOを果たしたPayPalはeBayに買収されるが、ティールは株式の売却益を用いてデータマイニング会社Palantirを設立、同社はアメリカCIA(Central Intelligence Agency:中央情報局)やNSA(National Security Agency:国家安全保障局)、(DIADefense Intelligence Agency:国防情報局)などと協業するほか、AI分野でGoogleやMicrosoftとの協業を発表している。またPayPalのOBや当時の知己を中心に振興ITサービスに旺盛な出資を行うことでも知られており、Facebook、YouTube、LinkedIn、Spotify、Quoraなどはティールの初期投資により誕生している。AI分野では技術的特異点の急進派としても知られ、OpenAIやDeepMindにも多額の支援を行っている。

手広い経済活動と相乗するように、ティールの右派リバタリアンとしての発言力も増している。論考「リバタリアンと教育」では「自由と民主主義は両立しない」とまで言い、アメリカ同時多発テロ事件ののちに参考人として出席した連邦議会では「プライバシーを選ぶか、安全保障を選ぶか」と迫る。2016年の米大統領選で巨額の献金とともにドナルド・トランプを支持し、政策顧問として「影の大統領」の異名をとったことも記憶に新しい。2023年には共和党を支持しないことを明言したが、これも現在の共和党が、イノベーションや他国との経済競争よりも、人工妊娠中絶やセクシャル・マイノリティの権利拡大へのバックラッシュを優先していることへの不満からだとみられている。

 

 

ダブ・ステップの背後に横たわる脱出のヴィジョン

 

ニック・ランドのリバタニアリズムを受け継ぎ、オルタナ右翼の思想的基盤となっているのが、のちに「加速主義の父」と呼ばれるニック・ランドという人物である。ランドはイギリスで哲学を学び、1987年から1998年まではウォーリック大学で大陸哲学を教える大学講師だったが、1990年ごろにCCRU(Cybernetic Culture Research Unit:サイバネティック文化研究ユニット)という研究会を共同設立する。このCCRUでの対話をもとに、ランドは1992年には著書『絶滅の渇望――ジョルジュ・バタイユと有毒性ニヒリズム』を上梓する。この著作は、バタイユの読解を通じて、マルクスやニーチェ、ショーペンハウエルを引用しつつ、死と破滅への欲望を論じるという、かなり牽強付会な――換言すれば“厨二病”的な――内容だが、それゆえにかCCRUのバイブルとして読まれ、とくに資本主義を徹底することで破滅へのプロセスを速め、国家や西洋近代社会からの「イグジット(脱出)」をはかろうとするコンセプトは「加速主義」として共有されることとなる。

その後ランドはドゥルーズ&ガタリに傾倒するものの、これは学問的な探求というよりインスピレーションや引用のネタとしてだと思われる。たとえばドゥルーズ&ガタリは『アンチ・オイディプス』において、封建時代から革命や共和制において権力が引き剥がされることを「脱領土化」、それが資本主義において貨幣や資本へと再編されることを「再領土化」として捉えたうえで、資本主義からの「脱領土化」を構想するのだが、ランドはそこから「脱領土化」のコンセプトのみを引用して自身の論を補強している。その後CCRUはオカルト的要素を強めるとともにカルト化し、メンバーの離反もあり2003年に解散する。その後ランドは上海の出版社に勤務していたが、ブログに反平等かつ権威主義的なテキストを発表し「暗黒啓蒙」と自称する。民主主義を「大聖堂(カテドラル)」と名指してそこからの「イグジット(脱出)」を謳うこの黙示録的なテキストは、テクノロジーで人間の生物学的な限界を超越しようとするトランス・ヒューマニストや、超知能の到来と人類の滅亡を予言してみせるシンギュラリティ論者に好んで読まれるようになる。

ウォーリック大学は非科学的かつ人種差別的だったCCRUとのかかわりを頑なに否定しているが、ランドが同大学哲学科で研究会を開催していたころのメンバーには現在もさまざまな方面で影響を与える人たちもいる。kode9名義でダブ・ステップの黎明期を代表するDJとして名を馳せ、Hyperdubレーベルを立ち上げて多くのトラック・メイカーを輩出するスティーブ・グッドマンもその1人だ。ダブ・ステップとはジャマイカのレゲエDJ発祥のベース音に強いリバーブをかけた手法であるダブと、UKハウスに用いられたイレギュラーなリズムを持つ2ステップとを混合させた音楽ジャンルで、音数が少ないこと、複雑なリズムパターンを用いて低周波数のベースサウンドを強調すること、そして音素材に大きくエフェクトをかけることが特徴である。冒頭に示したvaporwaveの音づくりも、これらの手法をDIY的に用いており、ダブ・ステップの延長線上にあるともいえる。

 

 

陰謀論とノスタルジーが曇らせる想像力

 

当然ながら、近代の後の世界を一足飛びに清算して、人類滅亡のディストピアを待望する短絡的な考えや、そこにポスト・ヒューマンとして君臨するといったエリート意識は容認されるものではないだろうし、受け入れられるべきでもない。経済学者ポール・クルーグマンは「ニューヨーク・タイムズ」のコラムに「富豪たちは私たちよりイカれている(The Rich Are Crazier Than You and Me)」とする記事を載せ、テック界のトップの多くが陰謀論を支持するのは、彼らが従来の常識を疑うことで大金を得たために、その「逆張り」志向を、なににでもあてはめようとすると指摘した。そのうえで、彼らが巨大な富と影響力を持つにもかかわらず非合理的な隘路に陥るのは、自負する能力にもかかわらずコントロール不可能な世の中の複雑さを受け入れられず、影に得体のしれない陰謀団がいるのではないかという猜疑心に染まってしまうからではないかと推測する。

ボブ・ディラン&ザ・バンドのローディから映画プロデューサーを経てテクノロジー評論家に転じたジョナサン・タプリンは、イーロン・マスク、ピーター・ティール、マーク・ザッカーバーグ、マーク・アンドリーセンの4名を名指して「テクノ・オルガリヒ(Techno-Oligarchs)」と呼び、4人が自分たちの寡占状態を維持するために、メタバースや火星移住、暗号資産というファンタジーを売りつけていると指弾する。また、テクノロジーによって既得権を打ち破るシリコンバレーのヒーローだった彼らが、いまは巨額の資産を防衛するために反民主主義かつ権威主義的な展開をはかっていることに警鐘を鳴らしている。

1980年代半ば以降、資本主義・民主主義・個人主義といった近代社会の道具立てがひととおり揃ったところで、思想ではポスト・モダンとして、社会学では後期近代として、近代以降の社会については多方面から考察がなされてきた。かつてCCRUに所属したのちにランドらと袂を分かち、左派加速主義の代表人物となったマーク・フィッシャーは「資本主義の終わりより、世界の終わりを考えるほうがたやすい」としてノスタルジアと揮発性の高い快楽にとらわれる2000年代以降の閉塞感を批評した。また近代の達成にむけた「大きな物語」が失われた成熟後の後期近代を「リキッド・モダニティ」と位置づけて論じた社会学者ジグムント・バウマンは、国境に基づく国民国家「リヴァイアサン」が絶対的な力を失い、存在的不安のもとでホッブズより昔の過去に憧憬を抱く「レトロトピア」の時代へと退行していることを指摘している。

排他的な陰謀論や自国中心主義がいわれ、懐古と終末論との両極化が進む現在の状況をふまえると、日本のシティ・ポップが世界で受容される音楽状況は、再評価や逆輸入とはちがった様相としてみえてくる。もちろん、過去の音楽に耳を傾けることは悪いことではないし、音楽が一過性のものとして消費されないに越したことはない。しかし過去に耽溺するあまり、未来への想像力を拒絶することは、生の1回性を損なうことになりかねない。それこそが、さまざまな立場や観点から数多の思想家が求めてきたことなのだし、科学技術が発展した理由なのだから。(了)