映画『生きる-LIVING』は名画か? 官僚主義と“善”の陳腐さ

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

こうした論考を数年間つづけていると、信念のようにしていた考えがただの思い込み、もっと悪くして偏見に過ぎなかったと気づくことがある。そうした過誤に気づく瞬間というのは重要だ。その瞬間がもっとも思考が深くなるからだ。

 

 

目次

黒澤へのオマージュから覗く小津

人間普遍の愚かさと虚しさ

官僚の生きがいとブルシットジョブ

官僚的陳腐さ、未来への責任

中国という未来から見る、現在の責任

 

 

 

 

 

 

黒澤へのオマージュから覗く小津

 

ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが脚本を書いたことで話題の映画『生きる-LIVING』を観た。知られているようにこれは黒澤明が1952年に、志村喬を主演に撮った『生きる』のリメイクである。インターネットのサイトでも評価は上々で涙を禁じ得ないヒューマンドラマとして注目されている。私が観た回でも、上映後に席に残った老夫婦が二人して涙を拭っていた姿は印象的だったし、客席全体に優しい空気が溢れていた。
私のほうはというとどういうわけか、こうした観客の受け止め方もふくめて大いなる違和感に包まれていた。いや、悪い映画ではない。話法もどちらかといえば好みのものだった。それなのにどこかメロドラマの石鹸臭、説教調が鼻についたのだ。
まず冒頭で、この映画はいまどき珍しいスタンダードサイズで撮られていることに気づく。つまりブラウン管時代のテレビのアスペクト比(画面比率)である4:3だ。正確にはスタンダードサイズではなく、この映画のためにつくったアスペクト比だったそうだが、このあたりは黒澤明の『生きる』へのオマージュかなと思った。テーマ曲にのってキャストクレジットで映画が始まるのもどこか懐かしさがあった。
またコントラストの強い画づくりでミッドセンチュリーなファッション写真のような幾何学的構図、統制がとれ均衡を維持するミザンセーヌと、登場人物の動きもどこか構図としての完成を目指しているようだった。この映画の舞台が1953年のロンドンであるために、時代感覚を喚起する演出として好ましい話法となっている。
映画が進むうちに私はふともう一人の世界的な映画作家の名前を思い浮かべていた。最後までスタンダードサイズのフィルムにこだわった小津安二郎だ。舞台となるロンドンのウォータールー駅の撮り方など、小津が撮る高層ビルの平面的な感じを思い出させたし、人物の動きも小津の遺作『秋刀魚の味』で有名な横一列のピクニックの風景を思わせた。そうなると蒸気機関車さえ『東京物語』の遠景のそれのように見えてくる。さらに主人公の官吏を演じたビル・ナイは笠智衆を彷彿させないではいないのである。
上映後、慌てて買ったパンフレットですべての答え合わせができた。この映画、黒澤の『生きる』を愛したイシグロが、志村喬でなく笠智衆で撮ったらという発想がもとになっていたのだ。ビル・ナイに「あなたに演じてほしい役がある」と言ったのもイシグロだという。そのうえ、監督のオリヴァー・ハーマナスも1950年代の映画へのオマージュとして、スタンダードサイズを模したアスペクト比にしたそうだし、『生きる』で黒澤と撮影の中井朝一が生み出した映像を「マグナム・フォトのような画の強さがあった」と述べており、その時代の写真芸術の構図を研究したのだろうと思わせた。
そういうわけで、私は蓮實重彦がこの映画『生きる-LIVING』をどう観たかが気になった。蓮實は『監督 小津安二郎』(ちくま学芸文庫)で、小津の映像話法を形式主義的でストイックなものではなく、より過剰で自由なものと論じた。先の『秋刀魚の味』のピクニックの風景についても、この本で詳細に論じられる。

 

映画『生きる-LIVING』公式サイト

https://ikiru-living-movie.jp/

 

 

生きる<普及版>
志村喬 (出演), 小田切みき (出演), 黒澤明 (監督)
東宝

「秋刀魚の味」
岩下志麻 (出演), 笠智衆 (出演), 小津安二郎 (監督)
松竹

東京物語
笠智衆 (出演), 東山千栄子 (出演), 小津安二郎 (監督)
松竹

監督 小津安二郎
蓮實 重彦 著
筑摩書房
ISBN:4-480-08003-1

 

 

 

人間普遍の愚かさと虚しさ

 

映画『生きる-LIVING』を観に行く際に、私が最も関心を注いでいたのは映画史的にも有名な、ほとんど教科書的ともいえる物語構成をイシグロがどう扱ったかにあった。黒澤の『生きる』で有名なのは、物語の中盤で主人公が死ぬという構成である。突如はじまる通夜のシーン。繰り広げられるのは黒澤が得意とする葬式や結婚式などに人物が集うことによって生じる見取り図的なドラマの集約と、さらには記憶の行き違いによる──いまでは世界でも「ラショーモン(羅生門)状態」という──ポリフォニックな語りだ。
ノーベル賞作家であるイシグロはなんの衒いも韜晦もなく黒澤映画の構成を踏襲した。むしろより細かいモチーフの翻案にこそイシグロらしさを感じさせた。そうした細部はじゅうぶんに映画的な真実を組み立てていたし、イシグロの小説を読んで感じるような憐れみも心地の良い感傷であった。
しかしながら私が抱いた違和感は拭えない。それは涙を拭う観客の姿、感動を言い合うレビューにふれてますます強くなる。違和感の理由を突き止めようとDVDで黒澤の『生きる』を観なおした。思えば、黒澤映画の多くがそうであったように、普段はテレビを観させてもらえなかった子供のころ、唯一、父親が推奨し観させてくれたのが黒澤映画だった。もちろん『生きる』もその時分に観ている。
子供の私が黒澤の『生きる』から得た感動は、おそらくは父親の影響もあったろうが、ヒューマンドラマに対するそれではなかった。『生きる』の主人公・渡辺勘治がたったひとつ世界に遺したのは小さな公園である。父はよく「猫一生に鼠一匹」というようなことを言う人だったが、子供の私が得たのは「ダメ役人の小さな公園」という教訓なのだ。それは皮肉に満ちていて、どこか滑稽なものだ。感動があるとすればトラジックコメディーとしてなのだ。死ぬことがわかって慌てて生きようとする姿を滑稽なもの、それは人間普遍の滑稽さと受け取った。「どんなやつでも死ぬまでに何かひとつぐらいは遺すものさ」というような皮肉なのだ。ポストモダンなヒューマニズムへの疲れが父親を通して私にもあったとしたら、それはテレビで『生きる』が放映された1980年(長い沈黙の後、巨匠が『影武者』を上映する年の特集放送だったろう)ころの醒めた空気のせいかもしれない。
映画批評家ドナルド・リチーの『黒澤明の映画』(三木宮彦訳/キネマ旬報)に、志村喬の演技が過剰だったという黒澤の発言が残っている。その通りで『生きる』の渡辺勘治は大仰に自身の悲劇を嘆くし改めて生きようとする決心でさえ、背後のハッピーバースデイの合唱もふくめてどこか児戯めいている。通夜で交わされる人物評も、助役や部下たちには見えない渡辺の本質は良心をもつ者だけが知っていたという「裸の王様」ふうの説話だ。私はむしろ通夜で誓いあったあれだけの決心が翌朝の役所のデスクのうえで雲散霧消することの虚しさのほうにこそ人間の普遍を感じる。
ドナルド・リチーは同書で、黒澤の『生きる』の海外での評価を紹介している。映画の後半が冗長でもうすこし短縮できたのではという評価があったそうだ。今回の『生きる-LIVING』ではその部分はコンパクトにまとめられている。おまけに志村の過剰な演技に対する黒澤の反省さえ、ビル・ナイの演技に活かされている。その点で映画としてはより完成されたものと言えるのかもしれない。
しかし、その洗練や端正が人間普遍の愚かさの味わいを薄めてしまったのではないか。
新しい脚本によって新実存主義の時代にふさわしいヒューマンドラマになったと言えればよいのだが、それは旧いヒューマンドラマへのノスタルジーでしかなかった。

 

 

影武者
仲代達矢 (出演), 山崎努 (出演), 黒澤明 (監督)
東宝

黒澤明の映画
ドナルド・リチー (著), 三木 宮彦 (翻訳)
キネマ旬報

 

 

官僚の生きがいとブルシットジョブ

 

ドナルド・リチーは『生きる』を官僚映画だと述べている。『生きる』にも『生きる-LIVING』にも官僚たちの退屈な仕事が描かれている。しかし、それはデヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳/岩波書店)で論じて話題になったような無駄で意味のない仕事とはちょっと違う。それはまだ戦後まもない1950年代と、なにもかもが飽和した2010年代との違いかもしれない。1950年代には公共の目的を誰もがだいたい共有できたし、そのためにすべき仕事は単純であった。どちらの映画の主人公にとっても、汚水の処理であり、子供たちのための公園建設は向き合うべき正当な問題だったのだ。いかにも社会が成長している最中でみながより豊かになることを望んでいた時代の話ではないか。
ちょっとした思考の遊びで、これを現代に置き換えてみれば時代の違いがよくわかる。都庁に勤める職員A氏は余命数カ月と知って、杉並区あたりの再開発に立ち上がり不衛生な駅裏の権利が入り組んだ共同所有区域の飲み屋街を一掃して緑道をつくろうと立ち上がる。市民運動家の反対にも屈せず、粘り強く土地を買い取って……というような。そういえば黒澤の『生きる』でも中村伸郎(『秋刀魚の味』でも名演!)が演じる助役が、渡辺がつくった公園を政治の道具にしようとする。インフラ整備は政治的な行為と直結しやすく、その分、現代ではなおさら反対派の逆風も強い。今だってどっかの都知事が明治神宮外苑あたりでゴタゴタしてるじゃないか──。
思考の遊びは遊びとして、『生きる-LIVING』は舞台を現代に置き換えてこそ翻案の意味があったのではないかとも思う。1953年に舞台を設定したことで、『生きる-LIVING』は単なるファンタジーになってしまっている。人間普遍の愚かさも虚しさもファンタジーで覆われて、デオドラントなドラマが供される。
現代に置き換えることを望むのは、現代の私たちの仕事のほとんどが愚かな部分までまるごと官僚的なものになっているからだ。哲学者のニック・ランドは『暗黒の啓蒙書』(五井健太郎訳・解説、木澤佐登志 解説/講談社)で進み過ぎた民主主義と平等主義の現代で、仕事はどれも官僚的な権威主義に陥っているという。ランドはそうした社会の仕組みを「大聖堂(カテドラル)」と呼び、資本主義を極限にまで推し進めることでイグジット(出口)せよという加速主義を論じる。暗黒の啓蒙なのは、これまでの西洋社会の良識を突き抜けるものだからだ。新反動主義ともいわれ、グローバルなテック企業の多くの創業者を輩出したペイパルマフィアの創始者であるピーター・ティールなども代表的な人物として取り上げられる。ピーター・ティールは過激なリバタリアンであり、トランプ元米大統領のブレーンでもあった人物だ。
規制も管理も撤廃してテクノロジーとともに資本主義を加速することで、官僚化して蝕まれている私たちの生きがいを取り戻すというのだ。だからペイパルマフィアの代表的な人物であるイーロン・マスクがChatGPTに衝撃を受け、AI開発の6カ月間停止を訴えたとて、裏の意味やポジショントークを疑うほかない。

 

 

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
デヴィッド・グレーバー 著 , 酒井 隆史 訳 , 芳賀 達彦 訳 , 森田 和樹 訳
岩波書店
ISBN9784000614139

暗黒の啓蒙書
著:ニックランド 訳:五井健太郎
講談社
ISBN978-4-06-519703-5

 

 

官僚的陳腐さ、未来への責任

 

前回の記事で倫理を論じるなかで、倫理とは時間的な秩序であると言った。時間的な秩序はそのまま有限な生命のことであり、『生きる』も『生きる-LIVING』も、まさにみずからの命の限界を知り公共善に目覚める人物が主人公であるし、主人公に感化されてわずかながら倫理に目覚める人々が登場する。前回、時間的な秩序と同時に手段と目的の履き違いについても論じたが、生きる手段だった仕事が生きる目的になっているともいえるわけだ。
この手段と目的についてよく似た議論をハンス・ヨナスがしていたことを知ったのは前回の記事を書いた後である。ハンス・ヨナスはユダヤ人哲学者でハイデガーの弟子という捻れた人であり、もう一人の捻れた人ハンナ・アーレントの仲間である。映画『ハンナ・アーレント』で、アドルフ・アイヒマンを「悪の陳腐さ」という表現で記事にしようとするアーレントに反対するシーンでも、ハンス・ヨナスは重要な役回りだ。アーレントが結局、『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳/みすず書房)を書き上げたのはつとに有名だ。
アドルフ・アイヒマンも単なるナチスの官僚であるゆえに陳腐であった。アイヒマンは官僚的な真面目さで大量殺人の効率化を認める書類にサインし続けた。その意味では、なんでも後回しにする、余命を知る前の志村喬やビル・ナイの官僚よりも真面目であったし、志村喬やビル・ナイの官僚が成し遂げたものは、アイヒマンを評したアーレントに倣えば“善”の陳腐さそのものだ。官僚仕事には本来の意味での目的が欠けている。手段の特化だけが目的に入れ替わる。事物に個別性をもたらす目的がなければ、それは陳腐だ。
戦時中の官僚たちの生真面目さが地獄への道をせっせと舗装したものであれば、戦後まもない時期に官僚の真面目さには警戒心を抱かなかったろうか。これが先に「反対派の逆風も強い」といったことの正体だ。この警戒は、ちょうど学生運動に参加した学生たちが真面目な学級委員タイプが多かったことから、その後、我が子が学級委員長になることを親たちが警戒したのと同じだ(そうして70年代以降、正義やヒューマニズムは冷えていった)。
もしアイヒマンが死期を知る前の渡辺勘治のように、ユダヤ人関連の書類をデスクの端に追いやっていれば、どれだけか命が救われたのかもしれない。役所の苦情係に殺到する主婦たちが屋根裏のユダヤ人家族をなんとかせよと訴えると翻案して、舞台を1941年(『生きる』のたった12年前だ)のベルリンにしてみればかなりなブラックコメディになるだろう。
ハンス・ヨナスは技術と倫理について、技術において手段は目的と化すと論じたという。私は『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著/角川ソフィア文庫)でそれを知って膝を打った。まさに私がテクノロジーについて考えてきたことのひとつの答えであった。ヨナスは技術というものは必ず実現を求めるもので後戻りしないものと言い、技術は手段として生まれながらすぐに目的になるという。だからこそ技術にはそもそもの初めから倫理が必要なのだ。技術の目的は、手段として技術が生まれるまでは明瞭ではない。だから、できあがってすぐ技術が求めはじめる目的の、さらに先にある結果については責任の所在が曖昧になる。わかりやすくいえば、いま現在のゲノム編集であれAIであれ、テクノロジーの可能性が勝手に目的を生成してしまう。だが、テクノロジーが人類に与える影響は人間の一生程度では計測できない。ゲノム編集でデザインされた遺伝子からどのような人類が誕生するか、重大な結果が現れるのは何世代も先のことかもしれないのだ。
私は前回の記事に足りなかった論点に気づいた。テクノロジーに時間的な秩序を求めることの困難さだ。ヨナスのいう「未来への責任」もつまるところ、時間的な問題なのだが、それは人間には果たし得ない責任であり、倫理なのかもしれない。倫理は意味をなすのだろうか。
ナチスの強制収容所のために移動式のガスシャワー車を設計し、もっとも効率的な虐殺に技術を注ぎ込んだのはかの世界的自動車企業の創始者フェルディナント・ポルシェだったという話も付記しておきたい。

 

 

ハンナ・アーレント
バルバラ・スコヴァ (出演), アクセル・ミルベルク (出演)
監督・脚本:マルガレーテ・フォン・トロッタ
ポニーキャニオン

エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告
著者ハンナ・アーレント 訳者大久保和郎
みすず書房
ISBN978-4-622-08628-4

ハンス・ヨナスの哲学
著者 戸谷洋志
角川書店
ISBN:9784041124079

 

 

中国という未来から見る、現在の責任

 

『暗黒啓蒙』を書いたニック・ランドは上海在住である。ニック・ランドが主唱する加速主義、新反動主義は西洋的な先進国の停滞の原因を過度な民主主義と平等主義におく。この西洋的な先進国の停滞と無縁な中国は民主主義と平等主義を傍に置き、自由経済のみを加速することで成長を続けている。政治や思想は官僚たちに任せ人々は経済活動に専心するのだ。これを中華資本主義と呼ぶ。
歴史家の與那覇潤は『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)で、日本の歴史を近代化、西欧化の歩みとは別に中国化との揺らぎのなかで概観する。中国化とはまさに皇帝と官僚組織による政治支配のもとで、経済活動を自由化し活性化することを意味する。與那覇は、中国はこうした社会体制をすでに宋朝(960〜1279)時代に確立したとしている。中国は世界に先んじて自由主義経済を実現したグローバル国家だという。科挙による世襲にとらわれない人材登用により貴族支配を撤廃し、活版印刷の普及で広い国土においても情報を均等にして参加者を増やすことで競争を活性化し、貨幣への信頼を築いて流通を促し物々交換の経済を脱したのだ。これらは西洋や日本などの先進国でもようやっと近世(初期近代)以降に実現したことばかりなのだ。前回、私は「ひとつの時代をスキップして近代化した。強国こそを最大の目標にして科学化を進める、ここ30年の中国あたりの姿に似たものを感じるといえば反発を招くだろうか。」と述べたが、よくよく考えれば短絡であった。中華資本主義について私はどうにも居心地の悪さがあるし、それは加速主義や新反動主義に感じるものとも通底している。しかし、中国には私たちの世界のひとつの未来の姿があるのかもしれない。そうだとすれば、未来への責任の取り方のヒントがあるはずだ。
與那覇の同書は発売時にすでに読んでいた。中国化のテーゼもそれなりにインパクトをもって考えていたのに忘れてしまっていた。まさに何度も中国化をしようとしながら旧来の日本型の社会に揺れ戻ってきた日本の歴史のように、私はかつての思い込みに揺れ戻っていたようだ。與那覇の肝要な部分は、日本の歴史では中国化の流れは短期間、あらわれて必ずゆり戻しがあることだ。明治維新後のそういう動きを「再江戸化」と與那覇はいう。どこかヴァイマル共和政に疲れた人々がナチスを求めたこと、権威主義化していったことを『自由からの逃走』(日高六郎訳/東京創元社)とエーリッヒ・フロムが呼んだ状況に似ている。そして、ニック・ランドの議論もここにつながっているように感じるのだ。
私が、「中国化」を思い出したのは今回の記事を書くにあたり與那覇の『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』(文春学藝ライブラリー)を手にとったせいだ。小津安二郎に関しては内外で語り尽くされた感があった。ここまでに登場した蓮實重彦の前出書、ドナルド・リチーにも『小津安二郎の美学—映画のなかの日本』(山本喜久男訳/現代教養文庫)があるし、語られる内容もローアングルや独自の構図、反復されるストーリーテリングなど論点も出揃っていると感じていたが、與那覇はまったく予想外の点から小津安二郎を論じた。それは中国化を軸にするものであり、中国を通したグローバルな視点の映画への取り込みについてのものであり與那覇のテーマはここでも一貫している。
『帝国の残影』を読んで私は改めて小津の『東京暮色』をDVDで見直し、同書でも紹介される従軍記者として中国戦線に同行した林芙美子と水木洋子がストーリーを成した成瀬巳喜男の『浮雲』もDVDで見直した。『浮雲』は学生の頃、三軒茶屋の名画座で観て立ち上がれないほど感動した映画だが、今回はさらなる感動を味わった。それは私が人生を経たせいであろう。
黒澤も小津も成瀬も、ここに取り上げた映画は戦後の空気を強く感じさせるものだ。戦中をどう過ごしたかはその映像に強く反映されている。
そういう意味で黒澤の『生きる』の通夜のシーンに登場し、過去について激しく議論を戦わせ新たに生きることを誓い合った者たちの愚かさとは、ほとんど戦後の日本人そのものだったような気がする。

 

 

中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史
與那覇潤
文春文庫
ISBN978-4-16-790084-7

自由からの逃走
エーリッヒ・フロム著 日高六郎 訳
東京創元社
ISBN:978-4-488-00651-8

帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史
與那覇潤
文春文庫
ISBN978-4-16-813103-5

小津安二郎の美学―映画のなかの日本
ドナルド・リチー (著), 山本 喜久男 (翻訳)
フィルムアート社

東京暮色
原節子 (出演), 有馬稲子 (出演), 小津安二郎 (監督)
松竹

浮雲
高峰秀子 (出演), 森雅之 (出演), 成瀬巳喜男 (監督)
東宝

 

最後に私自身の話をすこし。以前、書いたが、私にも脳梗塞で死期を意識した時期がある。そのとき私が心ひそかに誓ったのは今回の記事の言葉でいえば、官僚的な仕事はすべて放擲して自由に生きていこうということだった。やり残したことなどとは思わずに、ただ逃げることを思った……。しかし、いまや私は自由とはほど遠く、あの日の誓いも虚しくせっせと働いている。滑稽だ。