オリンピックが教えてくれるガラパゴス日本のDXのやり方

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

これを書いているのは2021年7月29日。1年遅れで東京オリンピックが開催されている。思えば、新国立競技場のデザインでザハ・ハディド案が見直しされ、エンブレムでは盗作疑惑がもちあがり、コロナ禍で延期となれば、開会式演出の関係者の炎上騒ぎがつづき……。私は毎朝、電車で隈研吾の新国立競技場を車窓ごしに見る。今ここで起きていることはなんだろう?

 

目次

1 オリンピックは政治と外交の延長である

2 生活の延長にあるオリンピック

3 外圧がもたらした合理化の波

4 データ主義と資本主義

5 スポーツとビジネスのパラダイムシフト

 

 

 

1 オリンピックは政治と外交の延長である

 

半世紀を生きてしまった私にとって、もっとも古いオリンピックにまつわる記憶はモスクワ・オリンピックへの選手派遣中止決定の記者会見で、柔道の山下泰裕選手の涙だ。あんな強そうな大男が涙を拭う姿が、「大人は泣かない」と信じるほど長閑に育った私には奇異に見えたからだ。

モスクワ・オリンピックのボイコットは、前年1979年暮れに起きたソ連のアフガニスタン侵攻に反対してのものであった。日本では政府による参加中止であったが、イギリスのようにオリンピック委員会が独自の派遣を行う国もあった。今大会、国家主導のドーピング違反による処置で、ロシア・オリンピック委員会が選手派遣しているのと同じ仕組みだ。

オリンピックはいくらその憲章で政治を拒否していても、それはひとつの政治ショーである。カール・フォン・クラウゼビッツがあの著名な『戦争論』上・下(清水多吉訳/中公文庫―BIBLIO20世紀)のなかで、戦争とは政治や外交の延長であると論じたことと同程度に、オリンピックは政治の延長にある。東京オリンピックをめぐる、ここ数年のドタバタはすべてきわめて政治的な喜劇とみるのが正しいだろう。

クラウゼビッツの時代はヨーロッパでまさに国家間の戦争が頻発していた。その150年ほど前に締結したヴェストファーレン条約によって、歴史はカトリックとプロテスタントの宗教対立から国民国家同士の対立へと移行していたからだ。

この国家間の競争は近代を進める原動力となった。クーベルタンが平和の祭典としてオリンピックをアテネで再興した1896年も日露戦争をはじめ国家間の諍いが絶えなかった。同じ頃、万国博覧会も盛んに開催され国力を競いあっていた。戦争とは別に国威を示す政治的な手段として、オリンピックや万国博覧会が隆盛であったと考えるほうが理解しやすい。

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」には1855年のパリ万博のシーンがあるが、繰り広げられるドラマは政治劇だ。そしてそれもまた喜劇的である。


序列をめぐるさまざまなドラマは国民国家の宿命なのだ。ほとんど人間の本性と言ってもいいだろう。

 

 

戦争論(上)
中央公論新社
クラウゼヴィッツ 著 
清水多吉 訳

ISBN978-4-12-203939-1

戦争論(下)
中央公論新社
クラウゼヴィッツ 著
 清水多吉 訳
ISBN978-4-12-203954-4

 

 

2 生活の延長にあるオリンピック

 

ところで今日現在のところで、日本代表のメダル獲得は目覚ましいものがある。連日連夜のメダルラッシュで、これまでの大会に比せばさながらインフレのごとく金メダルの価値が下がっているのではないかと考えてしまうほどだ。もちろん、金メダルの価値は大会にも競技種目にも相対するものではない。絶対的なものだ。

長らく日本人をやってきた私にしてみると、ずっと「参加することに意義がある」とのクーベルタンの言葉を慰めに、〝メダルなど余録だ、感動をありがとう〟と日本敗戦の落胆さえもひとつの味わいにしてきたつい10数年ほど前とは隔世の感がある。いつのまに日本はメダル大国になったのだ? 子供の頃は、オリンピック開催時期の新聞に掲載される国別のメダル数をため息まじりに眺めていたというのに、今では申し訳ないほどの獲得数だ。アメリカ、ソ連、西ドイツ、東ドイツ、中国と、それこそ国力のランキングとそれは同じものであった。

それでもふと懐かしくなるのは、あの一大会に数個しか獲れなかったメダルの記憶である。幼い頃、私は父や母に彼らの記憶にある日本人のメダル獲得の話をねだったものだ。長じて熱中したのもかつてのヒーロー、ヒロインたちの物語だ。雑誌やテレビで特集があれば必ずチェックしていた。

ただ、オリンピックごとにいつも思い出される物語がある。それは山際淳司の名著『スローカーブを、もう一球』(角川文庫)に収録された「たった一人のオリンピック」だ。オリンピック出場だけをひたすら追求し、日本では競技人口の少ないボート・シングルスカルに目をつけオリンピック出場に賭ける男の物語である。純粋に「参加することに意義がある」だけを目指したともいえる。稀有な作家の独自の視点が日にあたりにくい側面に光を当てる。そこには政治ではない、生活としてのオリンピックがある。

 

スローカーブを、もう一球
角川書店
山際淳司
ISBN9784041003275

 

 

 

3 外圧がもたらした合理化の波

 

ところで、ここ数大会の日本のメダルラッシュの理由は奈辺にあるのだろうか。

ホームの強み? 開催地としての強化策が奏功した? ゆとり教育で育ちプレッシャーとは無縁の新世代の台頭? 科学的トレーニングの成果? はたまたドーピング検査の厳格化によって競争が公平になったおかげ?
おそらく要因を一つに絞ることはできないだろう。複合的な要因で日本はメダル大国となってきているはずだ。ただはっきり言えるのは、日本の競技力が時代に追いついているということだ。

かつてエリート教育や科学的トレーニングといえば社会主義国出身アスリート、ステートアマといわれた選手たちの代名詞のようなものであった。今も中国あたりには、その雰囲気は引き継がれている。その一方で、西側の先進国が先導したのは各競技のプロ化である。

東西どちらの世界でも競技力の向上に合理主義がもちこまれたと言っていいだろう。

翻って日本はどうか? つい数大会前まではやはりどこかに合理主義を否定する求道主義が付きまとっていた。より苦労したほうが、より理不尽に耐えたほうに価値があるという思想だ。

今はどうだろうか?

エリート教育でいえば、二世選手のような例もふくめて幼少期からひとつの競技に特化し続けてきた選手が全体の多くを占めるようになっている。科学的トレーニングの面でも根性主義が衰退するにつれ科学的トレーニングが定着するようになっているのは事実だ。

こうした変化は、日本での他の分野と同様に“外圧”によって起きた。

では、日本スポーツ界における外圧とはなんだったか?

それは端的にはこの25年間でもっとも成功した競技、サッカーにもたらされた外圧の影響がある。オフト監督以来、ヨーロッパの常識が日本の常識を覆す歴史を歩んできたのがサッカーだ。それは求道主義が合理主義に置き換わる歴史でもあった。デフレ不況で国力を低下させる日本にあって、ほとんど唯一、日の出の勢いで世界でポジションを広げ社会的にも高い注目度をもつサッカーの影響は小さくなかった。


サッカー日本代表の外国人監督がもたらしたパラダイムシフトについては『勝利のチームマネジメント サッカー日本代表監督から学ぶ組織開発・人材開発』(松村卓朗著/竹書房新書)に詳しい。日本にとっての「失われた20年」が、サッカー日本代表にとっては「世界に飛躍した20年」だった理由が垣間みられる。余談だが、この書籍の編集は私が担当した。

 

勝利のチームマネジメント サッカー日本代表監督から学ぶ組織開発・人材開発
松村卓朗
竹書房
ISBN978-4-8124-9998-6

 

 

4 データ主義と資本主義

 

オリンピックで喧しい世間とはまた別に話題をさらう選手がいる。MLB、ロサンゼルス・エンジェルスに所属する大谷翔平だ。目覚ましと言われるほど頻々と飛び出すホームランとエース級の投球と、空前絶後の活躍である。私も大谷選手の一挙手一投足に釘付けとなっているひとりだ。

久しぶりにここまで熱心にMLBを観戦するようになって改めて印象に残るものがある。それは数年前からMLBの各球場に設置されたスタッドキャストが算出するデータ群である。大谷選手に絡めて言えば、100マイル(160キロ)の速球は日本時代から有名だったが、MLBでは打球速度や打球角度といった数値が話題になる。大谷選手の場合、この数値も凄まじいためになおさら注目されてしまう。「弾丸37号は打球速度182キロ」といった具合に見出しになる。

スタッドキャストとはステレオカメラやレーザーを駆使してあらゆる競技データを解析するシステムである。軍事技術の応用で2014年から導入が始まっている。このデータの影響は大きく、ホームランになりやすい打球角度が見つかるやフライボール革命が起き、打者ごとの極端な守備シフトも当たり前の光景にした。

このデータ主義、あたかもビッグデータ時代と軌を一にしたようであるが、そうではない。なんとなればMLBのデータ主義はすでに50年の歴史があるからだ。

セイバーメトリクスがそれだ。すでに1970年に統計学的な分析で選手を評価しはじめているのだ。なんという合理主義か。

とはいえ、セイバーメトリクスが注目されるのはずっと後になってからだ。オークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンによるチーム編成の基礎となり、アスレチックスが好成績をおさめるようになった2000年代を待つことになる。合理主義の国アメリカでさえ、「国技であるベースボールをデータで分析なんぞけしからん!」という旧弊な抵抗があった。


ビリー・ビーンの改革はマネーボールと呼ばれる。少額の投資で最大の効果を得る球団経営という意味がある。マネーボールについては映画にもなったマイケル・ルイスの『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』(中山宥訳/ランダムハウス講談社)でご存知の方も多いだろう。資本主義の要請で合理主義の導入を進めたというのは当然の話かもしれない。

 

マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男
ランダムハウス講談社
マイケル・ルイス著
中山宥訳
ISBN4-270-00012-0

 

 

5 スポーツとビジネスのパラダイムシフト

 

ここまで縷々、オリンピックからスポーツと合理主義の関係をあれこれ考えてきた。いや、合理主義というより旧弊なパラダイムの破壊についてといったほうがいいかもしれない。なぜなら、今回の話はスポーツをビジネスに置き換えれば、そのままDX(デジタル・トランスフォーメーション)の話であるからだ。

日本社会はいつも海の向こうからやってくるもので変化してきた。それは外圧だ。外圧は政治性とは無縁ではない。今回、新型コロナ感染拡大によって日本のビジネス環境も変化を余儀なくされているという論調は多く見かける。しかし、オリンピックの開催式のドタバタやそれを取り巻く言論を見るにつけ、一体、何が変わっているのだろうという気になる。

しかし、少なくとも諸外国との競争を避けられないスポーツ界はこの20年で様変わりした。DX以上の合理化・効率化が進んだのかもしれない。

スポーツとビジネス、もしや外圧だけが違いなら、コロナ禍ぐらいではビジネスは変わらないだろう。国威・国益の危機に瀕するような外圧がないままに日本が変わる姿はやはり想像しにくい。いや、むしろそういう危機にすでにあるはずなのに。まだまだ日本はガラパゴスなのかもしれない。

(了)