量子超越を可能にしたエンジニアリング視点
─ 大阪大学大学院教授・藤井啓祐氏に聞く(1)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

昨年10月のノーベル物理学賞は、量子情報科学という新しい分野の開拓につながる貢献をした量子力学の研究者が受賞した。期待が高まる量子コンピューターだが、その現在地と将来について、日本の量子情報科学の第一人者である藤井啓祐氏に聞いた。第1回は、2019年にGoogleが成し遂げた「量子超越」の意義について伺った。

*上の写真は小規模な量子コンピューターを高速にシミュレーションするための計算機サーバーの前に立つ藤井氏

2022年12月15日 オンラインにて

 

 

藤井 啓祐(ふじい けいすけ)

大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻教授。大阪大学量子情報・量子生命研究センター副センター長。

2011年3月京都大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。理化学研究所量子コンピュータ研究センター量子計算理論研究チームチームリーダー、東京大学工学系研究科物理工学専攻客員教授、情報処理推進機構(IPA)未踏ターゲット事業プログラムマネージャー、量子技術の普及のための一般社団法人 Quantum Research Institute 理事を兼任。量子コンピュータのソフトウェアベンチャー、株式会社QunaSys、最高技術顧問。

専門分野は量子情報、量子コンピューティング。特に、量子誤り訂正、誤り耐性量子計算、測定型量子計算、量子計算複雑性、量子機械学習。著書に『驚異の量子コンピュータ:宇宙最強マシンへの挑戦』(岩波科学ライブラリー) など。

大阪大学基礎工学研究科 藤井研究室

https://quantphys.org/wp/qinfp/

株式会社QunaSys

https://qunasys.com/

 

 

目次

サイエンスとテクノロジーの量子世界

量子超越は科学技術における大きなマイルストーン

プラクティカルなフェーズに突入した量子コンピューター

物理学者のおもちゃからエンジニアの対象物へと昇華

 

 

 

 

 

 

サイエンスとテクノロジーの量子世界

 

IT批評・桐原永叔(以下、桐原) もともと藤井先生が量子コンピューターに興味を持たれるようになったのはどういったきっかけからでしょうか。

 

藤井啓祐氏(以下、藤井) 1980年代ですが、9801*というコンピューターがなぜか家にあり、それで子供の頃はゲームをしていました。とはいえ、特にコンピューターに対して思い入れがあったわけではなく、なんとなくものづくりやエンジニア的なことをしたいという理由で京都大学の工学部に進みました。本当は「マイクロマシン」と呼ばれる超小型機械をつくりたいと思って物理工学科に行ったのですが、勉強しているうちに具体的に目に見える世界の応用に興味を失ってしまって、数学とか物理とか概念的な世界に興味を感じるようになりました。その頃にちょうど量子力学の授業があり、それではまっていったという感じです。

*PC-9800シリーズは、NECが1982年から2003年まで、日本市場向けに販売していた独自アーキテクチャのパソコン。「9801」は初代機。

 

桐原 目で見ることができない量子の世界にどういった興味、関心があったんでしょうか。

 

藤井 量子力学は概念的な世界で、直接目で見えないミクロな世界なので、そこを支配しているルールを信じるか否かみたいな感じになります。一方でそれを記述する数式はすごくシンプルです。大学の1年生で習う線形代数で世の中のさまざまな現象を記述することができる。量子力学自体は複雑でしかも不思議な現象なのですが、その背景にある数学はすごくシンプルで美しい。そこに強烈に惹かれました。

 

桐原 そこから、量子力学からまた一転して情報工学の研究に進まれたのはどういう理由があったのですか。

 

藤井 量子力学はすごく好きなのですが、かといって、基礎物理を究めようという感じではありませんでした。もともとものづくりをしたいという指向が強かったので、量子力学を工学的に応用したいと考えていました。究極の物理法則である量子力学を使って、工学的に応用するテーマを探していたときに量子コンピューターに出会いました。具体的には、雑誌の「別冊日経サイエンス」で量子情報の特集をやっていて、そこに書いてあることにピンときたのです。何が書かれていたかというと、量子力学のルールは非常にシンプルであると。ある意味オセロみたいなものです。オセロって、ゲームのルールはすこぶるシンプルですよね。黒と黒で白が挟まれたらひっくり返って黒になる。おそらく初めて見た人でも、プレーしている人をしばらく見ていれば、どういうルールで動いているのかよく分かるはずです。量子力学も同様です。不思議ではあるのですが、数式で記述されたルールはすごくシンプルです。

 

桐原 すべてが数式で表され、曖昧なところがない──。

 

藤井 すごく簡単なベクトルと行列の世界です。こんな複雑なわれわれの世界を記述している基礎的な物理法則がベクトルと行列だけで解けてしまう。一方で、シンプルなルールを理解したことは、量子力学の世界を理解しつくしたことにはなりません。たとえばオセロのルールを知っている人がオセロの強いプレーヤーかといえば、そうとは限らないですよね。オセロには定石があって早い段階で隅を取られたら駄目とか、隅の近くに打つと隅を取られるので駄目とか、相手を囲わせるように内側を打っていったほうがいいとか、そういう深い理解があるわけです。シンプルなルールからつくられる複雑な世界の定石です。量子情報科学や量子コンピューターという分野は、そういうシンプルな数式で表される量子力学から生まれる複雑な現象世界の定石をつくる分野であるということが書いてあったんです。それを読んで、もうこの分野に進むしかないと思ったんですね。私自身ゲーム好きですし、何かを攻略するというのが好きなんです。何かの原理を発見するというよりは、その原理を受け入れたうえでそこから攻略法を考えたり、定石を見つけたりという方向が自分には合っているなと感じていました。それが学部3年生ぐらいの頃です。

 

桐原 サイエンスというよりテクノロジーとして量子に関心を持たれたというイメージでしょうか。

 

藤井 そうですね。サイエンスだけではないという意味で、サイエンス&テクノロジーをやっている感覚です。量子コンピューターとか量子情報の分野、量子技術の分野というのは、量子力学というシンプルなルールから生まれてくる高度で複雑な世界を、よりよく理解するとかよりよく整理するとかよりよく使いこなすことを目的とした研究であると理解しています。

 

 

量子超越は科学技術における大きなマイルストーン

 

桐原 2019年10月23日、Googleが量子超越を実現したという論文を公開しましたGoogleの研究チームは、最速のスーパーコンピューターを使っても1万年かかる問題を、53量子ビット(qubit)の量子コンピューターが10億倍速い、200秒で解けることを示したと発表しました。藤井先生はこの論文を査読された3人のうちの1人とお聞きしましたが、どういう経緯で査読することになったのでしょうか。

 

藤井 経緯というほどのものでははないです。論文雑誌から査読の依頼がきたので受けたまでです。査読の依頼は常にいろんなとこからきているので、たまたまきたという感じですね。

 

桐原 その論文を読まれてどんな感想を持ったのでしょう。かなり画期的な内容だったのでしょうか。

 

藤井 もともとGoogleが計算スピードに関して、ランダムな量子回路を使って古典コンピューターと勝負をするという話は聞いていたので、いずれは量子超越を実現するんだろうなとは予想していましたが、査読で論文が回ってきて本当にできたんだと感動しました。いよいよスパコンでもシミュレーションが難しいぐらいの領域に、量子コンピューターが足を踏み入れたんだと感慨深かったです。

 

桐原 この量子超越は歴史的に位置づけるとどのくらいの価値があるのでしょうか。

 

藤井 Googleが行った実験自体は、ランダムな量子回路でビット列をサンプリングするという、特に意味がないタスクです。実は古典コンピューターでランダムにサンプリングするというのと、量子コンピューターでランダムな計算をしてサンプリングするというのは、ビット列の出方が全然違うんです。量子コンピューターででたらめなサンプリングをするといっても、古典コンピュータにとってはシミュレーションするのはすごく難しいんです。逆に量子コンピューター上でランダムに計算してサンプルするというのは、かなり自然にできるタスクなので、だいぶ量子コンピューターにとって有利な問題設定にはなっています。とはいえ、50量子ビットの量子コンピューターがそれなりの精度で動くなんて誰も想像していなかったので、それがまず驚きでした。Googleが量子コンピューターの開発に参戦した2014年頃は5量子ビットからスタートしています。そこからだんだん増やしてきたわけですけど、20量子ビットから30量子ビットぐらいだったら、ノートパソコンでも簡単にシミュレーションできるので、しばらくはノートパソコンレベルの世界にいたわけです。それが数年たって50という数字を超えてきて、スパコンでもシミュレーションが難しくなるぐらいの計算を実現したというのは非常に驚くべきことですね。

 

桐原 なるほど。意味がないタスクでも古典コンピューターを凌駕したことに意味がある。

 

藤井 これまで何十年と開発されてきて芸術的なレベルにある古典コンピューターと、登場したばっかりの量子コンピューター。コンピューティング・システムとして考えられるようになったのが2014年以降という量子コンピューターが、いくら有利な土俵とはいえ、スーパーコンピューターと競うような時代になったというのはテクノロジーで見たら大きなマイルストーンだと思っています。役に立たない問題でもいいから、とにかくスパコンでもシミュレーションできない潜在能力を見せないと、役に立つ問題で速さ、優位性は絶対に現れてきません。そういう意味で通過儀礼というか、非常に大きなマイルストーンだと思います。

 

 

プラクティカルなフェーズに突入した量子コンピューター

 

桐原 量子超越はブレークスルーで言ったら、数十年に1回のレベルという話ですか。

 

藤井 量子コンピューターが古典コンピューターを乗り越える瞬間は、人類の歴史上で1回しかないです。

 

桐原 なるほど、まったく新しい世界の扉を開けたわけですね。

 

藤井 よくたとえられるのがライト兄弟のフライトです。あれも結構いろいろ疑惑があって、最初は12秒しか飛んでないとか、後年に検証のために同じ設計でつくった飛行機は飛ばなかったとか、向かい風が非常に強かったから飛んだんだとか。細かいことを言いだせばキリがないのですが、重要なのは翼や動力を設計したら人間が乗ったまま地上から離れて移動ができることを見せたという事実です。それ以降、飛行機はどんどん改良が進んで、飛ぶのが当たり前の世界になりました。量子超越も同じことです。絶対無理だと言っていた人も、今や量子超越という量子コンピュータにとって有利な問題設定で勝つのは当たり前で、今度は役に立つことをやってみせてくれと言っています。完全にマインドがリセットされています。

 

桐原 常識がアップデートされたのですね。

 

藤井 それまで得意な土俵でも古典コンピューターに敵わなかった量子コンピューターが当たり前に勝てるようになって、「絶対無理だ」と思ってた人たちに「じゃあ、役に立つ問題を解いてみろ」と言われるレベルにまで進化したわけです。これで量子コンピューターはプラクティカルなフェーズに入っていけた。通過儀礼と言ったのはそういうことで、量子超越はもう過去の話であって、役に立つ問題でアドバンテージを見つけましょうという時代に入っていると思います。

 

桐原 今のお話をお聞きして、気球の時代にグライダーで飛んで見せて飛行機という機械を誰もが想像できるようにしたオットー・リリエンタールを思い出しました。

 

 

物理学者のおもちゃからエンジニアの対象物へと昇華

 

桐原 2000年の頭ぐらいには、量子コンピューターの実現なんて50年ぐらいは難しいだろうと言われていましたよね。

 

藤井 私が研究を始めた頃は、50年どころか100年たっても絶対できないと言っていた人がいっぱいいました。

 

桐原 その時点では、何が最も困難だと思われていたのでしょうか。

 

藤井 やはり量子ビットの数を増やして精密に制御することが難しいと考えられていました。ひるんでいたと言ってもいいでしょう。長らく1量子ビット、2量子ビットでなかなか精度が上がらなかったし、ノイズレベルもなかなか下がらない状況が続いていましたから。加えて、物理学者が量子コンピューターの実現にそれほど興味がなかったこともあります。物理学者は、新しい現象を発見することに命をかけていますから、ノイズがあるものをきれいにするというようなエンジニアリングは、得意な分野ではありません。「カイゼン」はインパクトのある物理学研究として評価されませんから。

 

桐原 ブレイクスルーのためにはエンジニアリングという視点が不可欠だったのですね。

 

藤井 Googleが量子コンピューターの研究を始めるときに、ジョン・マルティニス*が率いる研究グループを丸ごと抱え込みました。ここで、研究者たちがとことんエンジニアリングをやって、きれいに量子ビットを動かすことに成功しました。きちんとエンジニアリングをすれば、きれいに量子ビットを並べて動かすことができるということが示されたことが重要です。どれだけきれいかと言うと、エラーレートが10のマイナス3乗で、1000回に1回しか壊れない。その前の時代は10回に1回壊れるぐらいのレベルだったので、2桁ぐらい精度が良くなったわけです。そのレベルのまま量子ビットの数を増やせば、いずれエラーの問題はエラー訂正で解決できる見込みが立つわけです。大規模化できればエラー訂正ができるんじゃないか、大規模な量子コンピューターが作れるのではないかというので、マルティニスの結果から研究者たちのマインドが変わりました。大規模な量子コンピューターを作るためには、どういうエンジニアリングをしないといけないかを考えるようになった。つまり量子コンピューターを物理学者のおもちゃからエンジニアの対象物へと昇華させたことで一気に研究が進んだのです

*ジョン・マルティニス(1958-)アメリカの物理学者。カリフォルニア大学サンタバーバラ校の物理学教授。Google Quantum AI Labでの量子コンピューター研究を主導している。

(2)に続く