<IT批評0号 2010/6/28刊 > グローバルかガラパゴスか
日本の電子書籍を変えるiPadの可能性
高橋浩子
日本でも電子書籍ブームが吹き荒れるか? iPad が上陸した今、その動向が大きな注目を集めている。さまざまなビジネスへの影響が取りざたされるなか、もっとも大きな影響が予想されるのが出版だ。そこでは何が起きているのか。何が起きようとしているのか、その現場をレポートする。
i P a d は「ページ」を感じさせるはじめてのデバイス
アップルがiPad を発表して以来、期待と不安が入り乱れた状態が続いた。情報ばかりが先走り、「アマゾンでは印税が70%になる」「このままでは出版社や書店が消える⁉」といった風説が、まことしやかにささやかれる。
実際のところはどうなのだろう。すでに電子書籍マーケットの真っ只中にいるイーブックイニシアティブジャパンと暁印刷に取材して、iPad が上陸したばかりの日本の電子書籍マーケットの現在をリサーチした。この2社は早くから電子書籍に取り組み、このマーケットで10年以上のキャリアと実績を持つ。
イーブックの設立は2000年。コミックを中心に、3万5000万冊以上のコンテンツを持つ電子書店の老舗的存在だ。今回、取材したのは、鈴木雄介取締役会長だが、いきなりこんな辛口トークから始まった。
「iPad が出るってことで、メディアが騒ぎはじめ、取材もたくさんいただきましたが、結局、誰もiPad を見ていないし、触っていない。すべては『聞いた話』でしかないんです。どこかが発信すると、それに追随するかたちで、複数のメディアが報道する。そんなことを当たり前のようにやっている今のマスコミの体質、どうかと思いますね」
噂だけが先行し、誰もが伝聞をもとにあれこれと話題にしながら、その実、本質が何ひとつ見えていない。まさに幕末の黒船騒動以来の日本人の反応といえる。実態を掴み、行動した者が維新を成し遂げたように、時流に勝者となる者は歴史が教えてくれているのに。
鈴木氏が次代の勝者なのかは歴史の判断に委ねるしかないが、少なくとも勝者の条件を備えていることは確かだ。
「なんでも聞いてください」と鈴木氏は言う。売り切れ続出のアメリカからいち早くiPad を入手し、検証に検証を重ねたという。「これはスゴイ端末ですよ。やっと出てきたな、と思いました。このサイズを体験したら、もう今までのような小さな画面には戻れないのではないでしょうか。とくに電子ブックなら」
携帯しかり、PDAしかり。電子書籍が読めるデバイスはいろいろあるが、いずれもリアル書籍の最小サイズである文庫本より小さいことは、誰でも知っているだろう。氏は言う。
「メーカーが作る端末は、小さいことをよしとする傾向がある。耳で聞くならばボリュームを上げれば済みますが、本のボリュームを上げるということが、どういうことなのか、彼らには分かっていないんです」
本とは何か
鈴木会長の「本」へのこだわりは強い。大手版元の出身で、書籍というものが何なのか、その定義を自身のなかに明確にもっている。
「そもそも本というものは、ページで成立しているものです。ページを眺め、手でめくってこそ、『本(Book)を読む』と言えるんです」
ITデバイスで、書籍本来の操作性をはじめて実現したのが、iPad だという。iPad こそ、本当の意味で電子書籍を楽しめるハードウェアなのだと。
ただ、鈴木氏が懸念しているのは、本体価格だ。iPad は電子書籍専用端末ではないが、電子書籍を読むために5万円を出す人が、どれだけいるだろうか? もっと本体価格が下がって、買いやすくなれば、日本でも爆発的に浸透することも決して夢ではない。
「iPhone もそうなりましたからね。近い将来、そんな日が来るんじゃないですか」
どこでも買えるからこそ、ベストセラーは生まれる
2010年の3月24日、講談社、小学館など出版社31社が集まって、一般社団法人日本電子書籍出版社協会を正式に設立した。
iPad、Kindle の登場に危機感を抱いた出版業界の対応策の一つだが、氏はその現状を辛口で評価する。
「今まで協会と呼ばれるものを作って、成功した試しがありませんからね。みんな黒船がやってくると慌てている最中だと思いますが、誰かが一人だけ飛び出さないように、手をつなぎ合っている感じ……なんじゃないですかね」
電子書籍でも成功したい。でも、仲間うちから一人だけ抜け駆けするのも許したくない。そんな保守的な発想が見え隠れするようだと指摘する。
とはいえ、出版社が電子書籍市場に参入しようと動いているのは事実である。各社が自社コンテンツを直販するとなると、イーブックのコンテンツに影響が出るようなことはないのだろうか?
「それはありませんよ。私たちはあくまで『書店』ですからね。出版社が直販するからといって、オタクでは売らないでと、言われたことはありません。だって、紀伊國屋では売っているけれど、丸善では売っていない。そんな本はベスセラーにならないでしょう」
そもそもイーブックには、電子書籍のコンテンツを独占するという考えがない。いろいろあって良し。むしろ、もっと多種多様な形態で各社が立ち上がり、電子書籍化を推し進めてほしいと考えているからだ。
「結局、よそが潰れればいいという狭い考えではダメですよね。電子書籍がどこででも買えるようになることが、市場全体を盛り上げることになるんですから」
各出版社、各書店、あるいは編集者といった出版に関わるすべての人が、積極的に電子書籍に携わることで書籍とは何かを考え直すチャンスになるのではないだろうか。
書籍とは何か、本とは何かを考え直すことはつまり読者(ユーザー)が何を求めているか。そのニーズとウォンツを見極めることでもあるのだから。
電子書籍は、長引く出版不況のなかで、読者へのリーチを半ば諦めた、売れなくて当たり前の出版界にとっても大きな起爆剤になることは間違いないはずだ。
書籍の価値は誰が決めるのか
電子書籍マーケットが成長したとき、大切になるのが「どこで買いたいか」ということだ。AでもBでも買える。けれども「イーブックで買いたい」という独自のサービスが肝要になることは、他のビジネスでも同じだろう。
イーブックでは、現在「トランクルーム」というサービスを提供している。
1冊の電子書籍を購入したら、登録してある3台のデバイスで自由に読むことができるというものだ。たとえば、会社のWindows パソコンでダウンロードしたコミックを、iPhone に落として移動中に読み、残りを自宅のMac でゆっくり読む……といったことができる。つまり本棚をクラウド化し、そこに購入書籍を格納する仕組みだ。
このトランクルームのシステムは、今年の2月に技術特許を取得し、名実ともにイーブックのオリジナルサービスとなった。もちろん、こうしたシステムは、アイデアのみならずすべてが自社開発である。
このトランクルームサービスを利用して、複数のデバイスで購読できるとなると、ある懸念も発生する。セキュリティの問題だ。
「もちろん大丈夫です。自社開発のセキュリティシステムは、今まで破られたことは、一度もありません」
トランクルームのほかにも、ビューアー内に作られる本棚に本の背表紙が並ぶのも、イーブックならではのサービスだ。
「なぜほかがやらないか? それは背表紙のデジタルデータまで、取らないからですよ」