京都大学情報学研究科教授 谷口忠大氏に聞く
第4回 アップデートされる世界認識と心の理論

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

谷口氏は、カーネマンの著作でも有名な速い思考・遅い思考の対比である“システム1・2”の枠組みを拡張し、知能の多層的なダイナミクスを“システム0・1・2・3”として再構築する。このモデルでは、身体の受動的な力学から、社会的・集合的な推論の創発までが一つの連続体として描かれる。“システム0”は身体そのものに根ざした知の層であり、“システム3”は他者とのコミュニケーションを通して立ち上がる集合的思考の層である。人間の「心」は、この多層的なシステムのダイナミクスとして常に更新されつづけるのだ。

谷口 忠大(たにぐち ただひろ) 氏

谷口 忠大(たにぐち ただひろ)

1978年京都生まれ。京都大学大学院情報学研究科教授。博士(工学・京都大学)。2006年京都大学大学院工学研究科博士課程修了。立命館大学情報理工学部助教、准教授、教授を経て2024年より現職。その間、Imperial College London客員准教授などを歴任。現在、パナソニックホールディングス株式会社シニアテクニカルアドバイザーを兼務し、AI研究開発にも従事。また、一般社団法人Tomorrow Never Knows理事、一般社団法人ビブリオバトル協会代表理事、一般社団法人AIロボット協会(AIRoA)理事、株式会社ABEJA技術顧問、IEEE Cognitive and Developmental Systems Technical CommitteeのChair。専門は人工知能、創発システム、認知発達口ポティクス、コミュニケーション場のメカニズムデザイン。システム制御情報学会論文賞、Advanced Robotics Best Survey Paper Awardなど受賞多数。『コミュニケーションするロボットは創れるか』(NTT出版)、『記号創発ロボティクス』(講談社)、『心を知るための人工知能』(共立出版)、『イラストで学ぶ人工知能概論』(講談社)、『賀茂川コミュニケーション塾――ビブリオバトルから人工知能まで』(世界思想社)、『記号創発システム論ー来るべきAI共生社会の「意味」理解にむけて(ワードマップ)』(新曜社)など編著書多数。

目次

システム0からシステム3までの世界認識

都築 正明(IT批評編集部、以下――)心理学や行動経済学で提唱された二重過程理論でいう、思考の直感モード“システム1”と熟考モード“システム2”に、“システム0”と“システム3”をそれぞれ加えた4層のモデルについてお話しください。

谷口 “システム1”と“システム2”という区分は、認知科学やAI研究でもよく参照される考え方で、いろいろ批判もあるのですが、僕は一般的で緩やかな意味で用いています。“システム3”というアイデアの着想を得たのは、人工知能学会の企画で、三宅陽一郎さんと清田陽司さんがオーガナイズされた「哲学者と人工知能研究者の対話」シリーズに参加したときでした。ベルクソン研究者の平井靖史先生と対談する機会をいただき、その議論の中で“マルチタイムスケール”というキーワードが出てきたのです(この対談は『人工知能と哲学と四つの問い』〔オーム社〕にも収録されています)。“マルチタイムスケール”は、その対談の中では、平井さんが「ベルクソン哲学のマルチタイムスケール解釈」という文脈で語られたものでした。認知発達ロボティクスや記号創発ロボティクスの文脈では、沖縄科学技術大学院大学の谷淳先生と国立精神・神経医療研究センター(NCNP)で計算論的精神医学を研究されている山下祐一先生が論文化された「マルチタイムスケール・リカレント・ニューラルネットワーク(MTRNN)」などの研究で、思考のマルチタイムスケールに関して僕は馴染みがありました。知能システムをつくっていく中でも、速いダイナミクスと遅いダイナミクスの双方が存在することは常に実感していましたし、平井先生との議論を通して、ベルクソン的な時間論の視点から“システム1”“システム2”が、さらに人間集団のレベルにまで拡張して議論できるのではないか?という着想を得ました。

ベルクソンは純粋持続という、物理的時間とは異なる意識の流れを論じています。

谷口 はい。当時、僕は二者間のエージェントが相互作用しながら記号創発を起こすモデル――「メトロポリス・ヘイスティングス名付けゲーム」を提案していました。このモデルでは、2体のロボットが共同注意のもとで対象を共に観察し、一方がその対象に名前をつけ、もう一方がそれを採用するか棄却するかを確率的に判断します。さらに、両者は役割を入れ替えながら相互作用を続けます。このなかで、理論的に、これが2体のエージェントの知覚を統合する表現学習という形で記号創発がなされるということが示せます。つまり、まるで2体が1つの超エージェントとして合体した知能のように振る舞う。もちろんその変化は個々のエージェントの学習の結果を反映していくので、実際には各エージェントの学習の時定数より遅いものになる。これはずっと僕の考えてきた記号創発システムのダイナミクスそのものに一致するのですが、そこで僕は、複数の主体が関わる系には、“システム2”よりもさらに遅いタイムスケールで進行するダイナミクスが存在するのではないかと考えるようになったのです。

この視点から見ると、人間の知能は単なる個体内の情報処理ではありません。記号を介して複数の主体がつながることによって、個人の頭を超えた高次の思考が立ち上がる。

つまり、僕たちは「一人で考えているようでいて、実際には他者とのコミュニケーションの中で認識を変容させながら思考している」――そこに創発的なレイヤー、すなわち“システム3”が存在するのだと感じました。

認知的な閉鎖系を超えたところで思考し、同時にその思考に制御されているということでしょうか。

谷口 そうですね。言ってみれば、創発的な記号システムそのものが「考える主体」になっているということです。僕は、このような“システム2”よりも一段階遅いタイムスケールで生じる思考過程を“システム3”と呼ぶようになりました。“システム3”という呼称を与えたことで、個人を超えた思考が確かに実在する――そのイメージが自分の中で明確になり、同時に集合的予測符号化(CPC)の自分のなかでの蓋然性も深まっていったのです。

一方で、ロボティクスの世界には、情報処理を背景として知能を研究する研究者が見落としがちな、身体そのものがもつ知性があります。たとえば、モータによるような動力を使わずに自然の重力と身体の機構だけで歩く「受動歩行機械」があります。また、人が何かをつかむとき、指の柔らかさや筋肉の弾性といった受動的(パッシブ)なダイナミクスが、実は知的な行動を支えています。こうした物理的・身体的なダイナミクスそのものにも、知的な側面がある。システム1よりも下にあるこのプロセスを敢えて“システム0”と呼ぶことにしました。身体そのものに宿る知です。感覚器や物理的構造に備わったパッシブ・ダイナミクスこそ、知能の根源的な層だと考えています。ロボットのような身体を持つAI研究では、この“システム0”を見逃してはならない。

知能研究では「頭の中の情報処理」だけで知を語りがちで、身体と環境の相互作用や、記号を介した他者との集合的な思考で起きる「頭の外の情報処理」が忘れ去られてしまうのです。

さらに言えば、“システム3”は外部化された認知とも関係しています。僕たちは、メモを書いたり図を描いたりすることで、思考を外部にオフロードします。それもまた、知能が身体や外界と連携して働く一例です。

“システム0”はアフォーダンスを受け取るレベルとして考えていいんですか。

谷口 関係するかもしれませんね。現代の多くの知能観は「データ化された後の情報処理」を前提にしています。つまり、センサーを通してデータが取得されたあと、それをどう解析・判断するかという、身体の内部処理だけで知能を説明しようとする。その結果「知能=脳」として語られてしまう傾向があるわけです。しかし実際には、知能は脳のなかだけに閉じてはいません。身体と環境のあいだにも、知能の本質的なダイナミクスが存在します。

この視点を明確にするために、“システム1”よりさらに下位の層として“システム0”を位置づけ、システム0/1/2/3という全体モデルとして整理しました。その後、改めてベルクソン研究者の平井靖史先生および各レイヤーに詳しい仲間にお声がけし、共著としてペーパーにまとめることになりました。

ベルクソンは、非線形的な時間軸の上で「エラン・ヴィタル(創造的衝動)」のもとで質的に進化することを生命のダイナミズムとして捉えました。またドゥルーズはそれを拡張して物質や機械、それに思考にもその運動があるとしています。そこから自由エネルギー原理や自己生成に接続すると、静から動へのダイナミズムを同一線上で論じられそうです。

谷口 まさに、そうした方向で考えています。記号創発システム論や集合的予測符号化(CPC)も、特定の学問領域に閉じる理論ではなく、「運動する理論」として発展していくことを願っています。ベルクソンやドゥルーズが語ったように、生命も思考も本来は「動的な過程」そのものです。CPCは、そうした生成的プロセスを、身体・社会・知識・記号のあいだで統一的に説明できるグランドセオリーの一端を担うものと考えています。その意味で、僕が目指しているのは、知能や社会を「動的平衡としての生成過程」として理解する新しい科学のかたちです。

いま不可知なものを捉えようとする科学の姿勢

『ワードマップ 記号創発システム論 来るべきAI社会の「意味」理解にむけて』(新曜社)を拝読して、ジャック・ラカンを記号創発システム論の俎上で評価されていたのに驚きました。AIやロボティクスをはじめ自然科学などに携わっている方々は、精神分析を軽視する傾向が強いと感じていたからです。とくにラカンは数式や自然科学の用語を衒学的に用いたことがソーカル事件で露呈したこともありますし。

谷口 確かにラカンは誤解されやすい思想家ですね。実は、2006年に書いた日本学術振興会のPD(Postdoctoral Fellow:特別研究員)申請書にも、すでにラカンへの言及をしていました。難解だとは思いつつも、「大文字の他者」や「小文字の他者」2という概念には、いまでも強い関心を持っています。AIと心理学の協働といえば、実験心理学的なアプローチが主流ですが、僕はそれ以上の世界にも心の不思議に関する示唆はたくさんあると思っています。個人的な背景もありますが、僕の母は京都大学で教育心理学を学び、当時スイスのユング研究所から帰国された河合隼雄先生の指導を受けていました。ただ、当時は女性が大学院に進学して研究者になることは世間体的にも難しく、母は大学院に進学することはしなかったのですが、河合先生は「いつでも戻ってきなさい」と励ましてくださったそうです。そういうこともあり、僕の家には、河合隼雄先生の新刊がでるたびに、著作が家まで献本という形で送られてきていました。そのため、僕にとって心理学――とくにユング心理学は、幼いころから身近なものでした。『子どもの宇宙』なども自然に手に取っていましたね。自分が子どもなのに。

いまの言葉で表現すると、ユングやラカンに代表される深層心理学は、“心の深層で起きている創発的な現象”を探る学問として、僕自身には非常に魅力的に映ったのだと思います。ユングを読めば当然フロイトに出会い、そして大学院に入ってからラカンを知りました。博士課程の頃には、京都大学総合人間学部の新宮一成先生のゼミにもちょっとこっそり参加し、ラカンの難解な言葉に苦しみながらも、その越境的な知的体験を味わっていました。

ラカンは無意識が自然言語で比喩的に形成されているとして論じていて、数式化を旨とする自然科学には馴染みづらくもあります。

谷口 たしかに、無意識のようなものは「よくわからないから非科学的だ」と片づけられがちです。しかし僕は「わからないけれど、たしかに何かがある」――その事実を認めることこそが科学の出発点だと思っています。現在の科学が説明できないからといって、それが非科学的なのではありません。単に、科学の射程がまだそこまで届いていないだけなのです。20年後、30年後には、今は語りえないものが理解されているかもしれません。だからこそ「理解したい」と願うのであれば、科学そのものを拡張していくしかありません。わからないものを前にしたとき、科学が取るべき態度は――排除ではなく、謙虚さだと思います。

ソーカル事件などの問題は、ポストモダン思想が科学や数学の言葉を無批判に借用したことにありますが、同時にそれは「科学と言葉のあいだの緊張関係」を浮き彫りにした出来事でもあります。この緊張は、いま僕たちが扱う理論――たとえば自由エネルギー原理のようなものにも通じています。その語りうる範囲を見誤れば、どんな理論も形骸化してしまう。けれど、その危うさを自覚しながら境界を押し広げるところに、新しい科学の創造性があるのだと思います。

そうした構図はよく起こります。オートポイエーシスについても、ルーマンが生物学の概念を社会学に導入したところまではよかったのですが、ときに「組織を自己創出しよう」という組織論に回収されてしまったりします。進化論についても、ハーバート・スペンサーの社会進化論という言葉が独り歩きして「適者生存だから、私たちも淘汰されないよう適応するべきだ」というように曲解されています。

谷口 ええ。まさに、理論が他分野に広がるときに必ず生じるリスクですね。学術融合(学融)は非常に重要ですが、同時に、「受け入れられること」と「正しく理解されること」は別問題です。どの分野でも通用する一般性を目指しながらも、語る範囲を見誤れば理論は容易に誤用されます。ですから、どこまでを語り、どこからは慎むべきか――その境界を自覚することが、学術融合の上でとても大切だと思います。

ラカンの立てた、現実界と想像界とがあって、そこを媒介する象徴界3があるという図式は、西垣先生のHACS(Hierarchical Autonomous Communication System:階層的自律コミュニケーション・システム)に近いようにも思えますし、先生のおっしゃる“システム0/1/2/3”にも重なるところもあるかと思います。ラカン派哲学者を名乗るスラヴォイ・ジジェクは現実界についても動的なものとして捉えていて、環境との相互作用にも近接した世界像を示しています。またラカンは、先生がお話しされていたハルナッドのいう“記号のメリーゴーラウンド”に近い概念として、シニフィアンの意味がずれて連鎖する“シニフィアンのメトニミー”という説明の仕方を提示しています。先生がラカンの精神分析を示されたことで記号創発システム論が腑に落ちるように、他分野の思想を示すことで、考えかたへのアプローチが近づくこともあります。

谷口 そうですね。『ワードマップ 記号創発システム論』の最後の方に思いっきって、ラカンやジェンダー論の話に触れました。書籍を書くときには、最後のページに近づくほど、少し自由に冒険的なことを書くことが許される感じがあります。これまでの章で積み上げてきた科学的な構造を踏まえたうえで、可能性としての展開に広げたかったのです。ラカンを引くことは、単に精神分析を援用することではなく、記号と他者、そして世界との関係をどう再構成するかを問う行為でもあります。CPCや“システム0/1/2/3”という枠組みも、そうした哲学的な射程を持っていると感じています。

科学的記述と思想的理解、その両方を行き来しながら、「意味生成とは何か」という問いを多層的に探ること――それが僕の関心の根にあります。