知性の再定義─教養を資産にしない遊戯としての知
1:AIにかけられた問い
目次
「再定義」という15年前の問い
2010年、わたしは「IT批評」という名の定期刊行物を立ち上げたs。創刊号の特集テーマは「ITによって再定義される金融・政治・出版・広告」だった。その巻頭言で、わたしはリドリー・スコット監督の映画「ブレードランナー」と、その原作であるフィリップ・K・ディックの『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』をとりあげた。
この名作SFの主人公デッカードは、「レプリカント」と呼ばれる人造人間を追跡するうちに、人間と人造人間の境界がどんどんわからなくなっていく。自身ですら人造人間か人間であるかを知らないレプリカントとの対照のなかで、人間の定義が曖昧なものになっていくためだ。身体的な差異がないだけでなく、人間の感情や思考と人工知能とのあいだにも明示的な違いがない。レプリカントは人間に「人間という存在」の再定義を迫っている。15年前、わたしはそう書いた。
電子書籍が書籍の定義を問い直し、電子マネーが貨幣の輪郭を溶解させたように、テクノロジーは既存のあらゆる概念に対して「存在証明の書き換え」を迫る。
とりわけ、生成AIが言語や記号といったシンボルを操作し、意味のある出力をほぼ自律的に生成するようになったことで、シンボルと概念の結びつきが自明ではないことが露わになってきている。いわゆる記号接地問題は、抽象的な議論ではなく、具体的な現象として経験されるようになったのである。このとき、定義そのものの根拠は客観的に示せるものではないことが明らかになり、前提が揺らぐことで再定義の要求は決定的に加速している。定義が揺らいだまま既存の枠組み──概念や意味、制度──を前提にし続けるならば、現実とのあいだに齟齬が生じるのは避けられない。
事物や事象の再定義に向き合わなければ、前提となる概念や制度を更新しないまま、テクノロジーだけを導入することになる。その結果、表面的には機能しているように見えても、現実とのズレはむしろ深刻化していく。わたしの一貫した視点は、既存の枠組みでテクノロジーの進化を捉えることへの懐疑にある。DXが頓挫し、著作権の議論が混乱しがちなのも、企業変革や著作権の意味を再定義しないでいるためではないかと考えてきた。
この15年間。生成AIの社会への浸透は、その再定義の要求を、制度や仕組みの問題から人間の認識の深層──パラダイム──へと、推し進めているように見える。電子書籍が書籍を問い直したように、生成AIは人間の知性や創造性そのものを問い直すためだ。デッカードが自分自身の人間性を疑ったように、わたしたちはいま自分たちの知性の本質を疑わざるをえなくなっている。わたしは今回、その厄介な問いに踏み込もうとしている。
とはいえ、人間の知性はそれほど崇高なものではないかもしれない。人間とAIのあいだに「明確な違いがない」とデッカードが苦悩したように、わたしたちはいま人間の知性とAIの処理のあいだに、なお区別と呼べるものが成り立つのかと考えてみなければなるまい。知識を持ち、推論し、文章を書く。そうした営みをAIが担いうるとすれば、人間の知性とはいったい何なのか。
知識の優位の消滅
AIによって「知っている」ことの優位性が崩れつつある。これまで知識や情報は希少な資源であり、何を知っているか、どのような情報にアクセスできるかが個人の優位を決定してきた。その構図は、専門知を基盤とするテクノクラシーを支えてきたともいえる。医師は医学知識を、弁護士は法律の解釈を、専門家はそれぞれの領域の知識の蓄積を差別化の根拠としてきた。それがいまやAIに問えば、専門知の多くが即座に明け渡される。
これはかつてインターネットが情報の独占を崩したこととは次元が違う。インターネットは情報へのアクセスを民主化した。しかしAIは、情報処理や文脈理解、推論といった、人間の知性に固有であると考えられてきた領域にまで踏み込みはじめている。「知っている」だけでなく「考える」ことまでもが、外部化の対象になりつつあるのだ。これは知性の本質に関わる問いを剥き出しにするものだ。
思考までもが外部化されつつあるこの状況に対して、私には、相反するふたつの動きが同時に立ち上がっているように見える。
ひとつは教養ブームだ。書店には「武器としての教養」「教養としての〇〇」といった類のタイトルが溢れ、知を体系として──そんなこと絶対にできないのに──網羅的に所有し蓄積しようとする、つまり資産化しようとする欲望が噴出している。
もうひとつは陰謀論の隆盛だ。ディープフェイクが横行しAIが事実と虚構の境界を溶かすなかで、現実の裏側を知る者だけが騙されないという物語への渇望が高まっている。
いささか逆説的に聞こえるかもしれないが、この一見正反対のふたつの動き──教養論と陰謀論──は、同じ不安の別の表れと考えられる。
この逆説は興味深いものだ。情報が“遍在”するほど、人間は知の“偏在”を求める。AIが思考を代替するほど、人間は本物の知性としての教養への渇望を深める。ところが、この「真実を知ること」への渇望が、不確実性のなかでの優位を確保する手段と見られるとき、知は投資対象として扱われはじめる。その延長で、教養は差別化のための資産として誇示されていく。
しかし、こうしたトレンドは、知が他者とのあいだを流れ、相互作用のなかで変化しながら累積されていく――いわば生態系ともいいうるその本来のあり方――に逆行してはいないだろうか。知は本来、所有(ストック)されるものではなく、流れ(フロー)のなかで価値をもつものだったはずだ。にもかかわらず、それを固定化し、資産のように扱おうとすると、その力はかえって働かなくなる。試みに医療の現場を見てみよう。AIによる診断支援が普及しつつある現在、「症状と病名を結びつける」という、知識の蓄積としての医師の優位は急速に薄れている。これは知をストックとして保持することの価値が相対的に低下していることの、ひとつの例といえる。
ただし、ある外科医が語っていたことを思い出しておきたい。「AIには手術の感覚がわからない。メスを入れる瞬間の、組織の抵抗の微妙な違い。それは言語化できない暗黙知だ」と。知を言語化し体系化できる領域ではAIに優位が移りつつあるのは確かだ。しかし身体と経験と文脈に根ざした知──ポランニーではなく野中郁次郎のいう暗黙知──は、AIが代替できない人間の知性の領域として残る。
暗黙知は、いまのところ外部化され、投資対象として所有できるような知ではない。投資できるのは、暗黙知を持つ人材に対してだけだ。外部化され、切り出され、資産として蓄積しうるナレッジに対して、暗黙知のほうはそうした対象になりきれてない。
暗黙知という概念は定義しうる。だから、外部化もしうると思いがちだ。しかし、個々の暗黙知を定義することはできない。概念としての暗黙知と経験に埋め込まれた個別の暗黙知とは別の水準に属している。グレゴリー・ベイトソンがバートランド・ラッセルを引いて述べた論理階型の違いがそこにはある。ここでいう論理階型とは、同じ言葉で語られていても、それが属する水準が異なれば同一には扱えないという区別のことだ。
フィジカルAIというとき、概念としての暗黙知のDXと個別の暗黙知のDXが同じ水準で語られているような気がしてならない。この論点にとどまる限りは、フィジカルAIは人の身体の代替さえままならないだろう。