複雑な世界を複雑なまま生きる──PLURALITYとなめらかな社会
第1回 SNSは政治のタブー化を乗り越えたか?
「あの首相にほんとうに辞めてほしいんです」と21歳の彼は言った。7月20日の参議院選挙の日だった。ふだん接する彼にははっきりとした政治信条を感じたこともなく、またそうした話をしたこともない。わたしはここ数十年において、ここまではっきりと政治について意見を述べる若者に身近で出会ったことがなく戸惑った。
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専門家とインテリが正しいのか?
テレビ朝日のモーニングショーでコメンテーターの玉川徹氏が、「いままでは投票率があがるのはいいことだと思っていたんですけど、果たしてどうだろう」と述べたのは選挙翌日、参政党の大躍進を伝えるニュースのなかだった。
発言をこの部分だけ切り抜けばなるほど選民主義に近い発言だが、玉川氏のコメント全体をみわたせば、これまで選挙に関心のなかった層がTikTokなどのショートムービーにのせられて国政に影響を与えたことを懸念する内容だった。なので、単に投票率があがったことを批判したわけではない。
とはいえ、これもまたオールドメディアの視座を免れないものだろう。自分だけの良識に照らした意見でしかなく、その良識はオールドメディアや古い教育によって醸成されてきたものにほかならないからだ。
しかし、選挙権が拡大してきた近代史において、本当に専門的な視座から国策にあたる議論の賛否を見極める力をもつ者が増えてきたとは言えまい。2016年には、日本の選挙権年齢が満18歳以上に引き下げとなっており、ますます専門性や「政治や選挙の基本知識を持ってる人」(玉川氏コメント)は希薄になるのは道理だ。
玉川氏の意見を掘り下げれば、SNSが普及して投票判断に大きな影響を与えるようになる以前から、おそらくは同様の不満をいう旧世代がいたことは想像に難くない。きっと玉川氏はテレビの影響を憂う評論家、ラジオに感化されたと嘆く知識人、新聞に騙されていると憤る既存の権威側の最新ヴァージョンだろう。
翻ってみれば、ちょうど100年前にオルテガが『大衆の反逆』(佐々木孝訳/岩波文庫)で論じはじめた「大衆」はずっとこうして専門家やインテリから離れて、みなと同じ凡庸──大衆的で非専門的──な要求の実現を政治に求めてきたのでなかったか。
わたしはそれを簡単にポピュリズムと切って捨てる気にはなれない。専門家やインテリの専横のほうにより嫌悪を覚えるためだ。
カズオ イシグロ (著)
岩波書店
政治タブー化を超えて
冒頭で首相の辞任を訴えた若者もおそらく特別な政治信条を持っているわけではないだろう。「自分と同じような若者がみなそうすべきだと思っているのに、なぜ変わらないのか」ということに怒りを感じていたにすぎない。オルテガの大衆がみなと同じ凡庸な要求の実現を求めていたように、特別な政治的欲求を訴えているつもりはない。歴史上、何度も登場する革命を夢見る若者とはちょっと違うのだ。変革ではなく是正を求めているというような感じと言えばいいか。
すこし補足しておこう。21歳の彼はわたしが毎週日曜に通う治療院のスタッフである。彼のほかに若いスタッフが数名いて、思い出せば、以前にもそれぞれとなんとはなしに選挙の話をした覚えがある。
1度は東京都知事選の際に石丸伸二氏について、2度目は先月の東京都議会議員選挙の際に「れいわ新選組」の財政政策についてだった。れいわ新選組にはやや警戒心もあるわたしだったが、若者に意見する気もなく、そのときは、彼らの財政案の目玉である消費税廃止論が依拠する「MMT(Modern monetary theory:現代貨幣理論)」について知っていることを答えてお茶を濁した。
彼らからすると、わたしなどはそれなりの政治信条があって、現在の政治についても一家言以上の考えがあると思うようだ。もちろんないわけではないが、それを開陳することにはひどく躊躇がある。
わたしたち、団塊ジュニア世代、就職氷河期世代にとって、政治はほとんどタブーに近い話題だった。少なくともそんな話題を仲間内ですればセンスを疑われた。その底には、全共闘の敗北からはじまる「政治タブー化」がある。
批評家の小阪修平は『思想としての全共闘世代』(ちくま新書)などで、繰り返し「政治タブー化」を論じてきた。「政治タブー化」とは1960年代末の全共闘運動の敗北や1972年の連合赤軍事件など、戦後日本の新左翼運動の挫折により「政治」を公然と語ることが世代的に忌避されるようになった社会風潮のことである。
全共闘運動のなかでも1972年の連合赤軍事件はきわめてショッキングで、立て籠っている学生運動家に対し母親が拡声器で投降を訴えるシーンはテレビで放映され、子供が政治化することの怖さ、その帰結の悲哀をいやというほどに親たちに味わわせた。いや、むしろこの中継の後日、山岳アジトから発見されたリンチによる遺体の数々は、政治化した我が子が被害者になる哀しみ以上に、加害者になる戦慄を親たちに刷り込んだ。
わたしたちの世代は学級委員に選ばれることさえカッコ悪いことだった。小学校のときにすでにそうだった。年寄り世代が「子供の頃に級長に選ばれた」ことを誇りにしていているのをひどく古臭く感じていた。
そんなわたしからすると、20代前半の若者が日常会話として政治を口にし、みずからの見解を開陳するのをみて違和感を拭えなかったが、それ以上に好意的に感じた。彼らがやや偏った意見に足をつっこんでいたとしても、だ。わたしたちの世代よりずっといい、と。
だから、この点でも玉川氏のコメントはもっと古いものに感じられた。専門家やインテリでなくとも政治を論じていい。興味、関心のある部分だけでも意見を開示してもいいと思える若者が眩しいほどだ。
小阪修平 (著)
筑摩書房

